岩倉使節団、憲法調査、伊藤博文と福沢2017/06/02 07:03

 そのビスマルクは、明治日本と微妙に関わっていた。 岩倉使節団は、廃藩 置県後の1871(明治4)年11月から翌々年9月にかけて米欧に派遣されたが、 2年目の10月、ビスマルクに会って演説を聞いた。 木戸孝允、大久保利通、 伊藤博文は、強い印象を受けた。 プロイセンは後進の小国で苦労した、ドイ ツと組まないか、留学生を送れ、など。(プロイセンが普仏戦争で勝ったばか りだったので、以後、陸軍に始まり、憲法、法学や哲学、医学、音楽もドイツ 式になっていく。) ビスマルクは絶頂の時期だし、大久保利通もそうだった。  大久保利通は1874(明治7)年、立憲君主制と言い出す。 王権(兵力)と議 会を分離する。

 日本でビスマルクとイメージが直結するのは、伊藤博文。 1882(明治15) 年に、1890(明治23)年発布と約束した憲法の調査のため、ドイツへ行き、 シュタインの講義を聞いた。 ウィルヘルム2世の時代で、国会を開くのは日 本のためによくない、プロイセンは議会を骨抜きにし、皇帝とビスマルクが牛 耳っている。 法律と行政を別に考えるべきだ。 政府と行政の組織を確立す るのが大事。 皇帝に忠実なロイヤル・サーバントの、冷静な判断力が必要だ。

 竹森俊平教授は、福沢諭吉と近いタイプは、伊藤博文だと言う。 ただ明治 14(1881)年の政変、薩摩を追い出すパワーゲームで、仲が悪くなるが、後に 仲直りする。 伊藤博文は甲申の変の折、天津で李鴻章と会談し、日清両方で 撤兵することを決めた。 いつも「冷静な判断力」でストップをかけるのが、 伊藤だった。 福沢の独立自尊も、国民一人一人の自由と独立がなければ、マ クロの国の独立はないとする、下から盛り上げるナショナリストだった。

 1891(明治24)年、ロシア皇太子ニコライ(ニコライ2世)が世界一周の 途中日本に来遊、警察官に斬りつけられて負傷する大津事件が起きる。 日本 に来る直前、ニコライはウラジオストックで、シベリア横断鉄道の定礎式を行 っていた。 シベリア横断鉄道は、満蒙を通った方がシヨートカットできる。  これが世界史を変える重要な意味を持っていた、中国とロシアの接近である。  鉄道をさらに南に延ばし、旅順まで(のちの満州鉄道)行くのは、完全に産業 上のプロジェクトだった。 中国市場を視野に、百年の先見の明だ。(つづく)

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