世界遺産富岡製糸場を見学2017/06/14 06:31

 6月5日、文化地理研究会の1964年卒業同期の会「六四の会」、学生時代の 代表加藤隆康さんの肝煎りで、世界遺産富岡製糸場を見学するバス旅行をした。  はとバスのツアーに便乗して、一般の方々とご一緒したのである。 ツアー名 は「世界遺産富岡製糸場と峠の釜めし&鉄道文化むら」。 このところ毎年、会 員ではない家内も参加させてもらっているので、後で、すっかり昔からの仲間 のような顔をして混ざっていると、笑ったことだった。

 富岡製糸場は、明治5(1872)年10月政府の殖産興業政策の先駆けとして 操業を開始、明治26(1893)年に三井家へ払下げられ三井富岡製糸所、明治 35(1902)年原富太郎(三渓)の原合名会社に譲渡され原富岡製糸所を経て、 昭和13(1938)年からは片倉製糸紡績、片倉工業が昭和62(1987)年まで、 115年間にわたって操業していた。 操業停止後も、片倉工業はほとんど旧状 を変えることなく多額の費用をかけて保存管理し、平成17(2005)年9月す べての建造物を富岡市に寄贈した。 寄贈当時の片倉工業社長の岩本謙三さん は、実は大学の同期だった。 私は柔道部だった友達の友達だったことで知り 合い、彼に「等々力短信」を読んでもらっていた。 その岩本謙三さんは、長 い闘病の後、昨年8月17日に亡くなった。 19日朝日新聞朝刊の死亡記事に 「同社が所有・管理していた富岡製糸場を、群馬県富岡市に05年に寄贈した 当時の社長。14年の世界遺産登録につながった。」とあった。 短い訃報なの に、こう書かれていたのが嬉しかった。

 今回は、解説員によるガイドツアーで見学した。 音声ガイド機のイヤホー ンに、解説員の声が入ってくる。 まずアーチのキーストーンに「明治五年」 とある国宝「東置繭(おきまゆ)所」、乾燥させた繭の貯蔵所。 木で骨組みを 造り、柱の間に煉瓦を積み上げて壁を造る「木骨煉瓦造」、材木は妙義山から、 煉瓦は瓦職人が甘楽町福島の窯で製造したという。 煉瓦は、表面が長短互い 違いになるフランス積。 この建物の1階では、後で繭から糸を巻き出す(機 械化以前の)座繰りの実演を見た。

 解説で初めて知ったのは、世界遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」に荒船風 穴(下仁田町)のあること。 日本最大級の蚕種(さんしゅ・蚕の卵)の貯蔵 施設である。 俳句の季題「蚕(かひこ・かいこ)」に、「春蚕(はるご)」とい う傍題がある。 『ホトトギス新歳時記』の「蚕」には、「蚕といえば「春蚕(は るご)」をいうので、夏、秋の蚕はとくに「夏蚕(なつご)」「秋蚕(あきご)」 と呼ぶ。四月中旬に蚕卵紙から孵化し、盛んに桑の葉を食べて六センチくらい の蒼白い虫に成長する。養蚕のことを俳句では「蚕飼(こがひ)」という。(傍 題に)蚕飼ふ。種紙。掃立(はきたて)。飼屋。蚕棚(こだな)。蚕室(こしつ)。 捨蚕(すてご)。蚕時(かひこどき)。」とある。 荒船風穴の蚕種(さんしゅ・ 蚕の卵)の貯蔵施設で温度管理をし、種紙の出荷時期を調節しての養蚕が、富 岡製糸場の東置繭所と西置繭所の繭倉庫2棟合わせて5000石、年間280日の 操業でも万全な収繭量と、計画的な大量生産につながったのであろう。

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