小森陽一教授の「漱石と地政学」2017/06/28 06:33

 2月には、NHKラジオの「文化講演会」小森陽一東大大学院総合文化研究科 教授の『没後百年に読みなおす夏目漱石』で聴いたのを、5回にわたって書い た。 漱石没後百年、「軍国主義」と「個人の自由」<小人閑居日記 2017.2.22. >、『明暗』で浮き上がる「強制徴兵制」<小人閑居日記 2017.2.23.>、『吾 輩は猫である』と日露戦争<小人閑居日記 2017.2.24.>、 新聞記事の記憶を、 連載小説で呼び覚ます<小人閑居日記 2017.2.25.>。 これも沼田篤良さん の『オリエント急行と地政学』に響き合う個所を引いて、自分自身のまとまっ た認識にしておきたいと思う。

 「小森陽一教授は、漱石が「軍国主義」と「個人の自由」の問題の真意を、 その1916(大正5)年5月26日から没後の12月14日まで東京朝日新聞に連 載され、未完に終わった『明暗』で伝えていると言う。 三次は、戦争前後に ドイツから逃げて来たという、それは第一次世界大戦。 岡本と吉川には、洋 行体験がある。 吉川夫人が岡本の洋行は、普仏戦争(1870年~71年)時分?  パリに籠城した組(パリコンミューン)じゃないのねと聞き、冗談じゃないよ、 という会話がある。 岡本は吉川をロンドンで案内したが、自動車が出来たて で(1885年、ドイツで内燃機関のダイムラーとベンツ)、ロンドンでは鈍臭い (のろくさい)バス(蒸気の外燃機関)が幅を利かせていた時代だ、エドワー ド7世の戴冠式(1901年)を見た、と。 ドイツはいち早く内燃機関、ガソリ ンへのエネルギー転換をし、1895年にはガソリン・バスも出来た。 1914年 7月に始まった第一次世界大戦は、石油をめぐる戦争でもあった。 エドワー ド7世戴冠の翌1902年に、日英同盟を結んでいた日本も今いう集団的自衛権 の発動で8月に参戦、秋にはドイツ領の青島を占領した。 大日本帝国の来歴 である。」

 「小森陽一さんは、この展開の背後に「強制徴兵制」が浮き上がるという。  日本が「徴兵制」を実施したのは、普仏戦争でのプロイセンの勝利がきっかけ だった。 1871(明治4)年岩倉使節団が派遣され、近代国民国家はプロイセ ンをモデルにしよう、「強制徴兵制」と「軍国主義」、憲法もやがてドイツ型に なる。 1872(明治5)年11月28日「徴兵の詔(みことのり)」が、翌年1 月10日「徴兵令」が出され、1875(明治8)年までに北海道、沖縄を除き実 施された。」

 「1915(大正4)年6月から連載の自伝的小説『道草』は冒頭、健三が「遠 い国から帰ってきてから、どの位経つか?」、疑問形で始まり、それを読者が答 えていく応答的に構成されている。 ようやく53章で明かされる。 養父の 島田(塩原昌之助)が金をせびりに来るのだが、島田はその立派な財布は、ど こで買った、と。 ロンドン。 56章では、財布ごと渡す、入ってないよ、と 空の財布を見せた。 財布はいくらで? 10シリング、5円。 いい値ですね。  留学の問題は、お金の問題だった。 ポンドを使うたびに、悩んでいたことが、 ザワザワと出てくる。 日本と世界の関係、その問題点が浮かび上がる。 日 英同盟を結んで、今いう集団的自衛権の行使から第一次世界大戦に参戦しなけ ればならなかった。 漱石没後百年に当たり、日米同盟を結んでいる今、この 国に対してどういう責任を取るのかが問われている、と私は確信している。 そ う、小森陽一さんは結んだ。」

 「『三四郎』の連載が東京朝日新聞で始まったのは1908(明治41)年9月1 日。 三四郎は「九州から山陽線に移って」東京へ向かう。 山陽鉄道株式会 社は、西日本の有力な私鉄道、食堂車や寝台車を初めてつくった会社だった。  日露戦争で兵站(ロジスティックス)の問題(機密保持や効率)が明らかにな って、二年前からすったもんだがあって、鉄道が国有化された(1906(明治39) 年3月31日。日露戦争費外債を低利外債に借換える担保資産とする意図もあ ったらしい)。 山陽鉄道では、最後まで株主(外国人も)は反対し、買収交渉 が新聞を賑わしていて、読者の頭にはそれがあり、そこへ新聞小説で山陽線が 出てくるのだ。 三面記事の読者の記憶を、下段の新聞小説で使っている。」