高田馬場の植木屋と、横浜「富貴楼」お倉2017/07/12 07:10

 安井弘さんの『早稲田わが町』を読んで、知ったことの続きである。 天保 の改革で、幕府の植木用達を務めていた九段の佐藤彦兵衛(二代目)は、他の 二名の庭師、三河島の伊藤七郎平、向島の萩原平作とともに、豪壮な居宅や庭 園の取り払いを命じられ、近くに植木屋の多い高田馬場・下戸塚の荒井山に引 っ越して来た。 彦兵衛には、長男常吉、次男亀次郎、三男吉之助がいた。 長 男常吉は家督をしっかり受け継いで三代目になるが、江戸で一番のいい男と噂 された遊び人亀次郎は、父の金で遊んで暮し、勘当されて兄と弟に迷惑をかけ た。 亀次郎は、新宿の遊女お倉と所帯を持ち苦労の連続の末、二人は明治2 (1869)年、活気あふれる横浜で商売をして頑張り、明治4(1871)年、駒形 町にあった料理屋を買い「富貴楼」の看板を出した。

 三男の吉之助は、向島の萩原平作の養子になり、三河島の伊藤七郎平の娘を 娶ったので、天保の改革で追放にあった三軒の植木屋は、全て親戚となった。  吉之助は萩原平作を継ぐが、維新の時、強盗に遭うなどして全財産を失う。 そ の三人の子の内、長男庄吉は高田馬場の伯父の三代目彦兵衛宅へ(のちの五世 清元延寿太夫)、二番目の兼次郎は横浜富貴楼の伯父のところへ、末の秀作は望 まれて五代目尾上菊五郎の養子へと、それぞれ引き取られた。 庄吉は11歳 になると、横浜富貴楼の伯父亀次郎とお倉の居候になり、そこで聴いた清元に 感動、稽古してみようという気になった。 井上馨も、伊藤博文も富貴楼の客 だった関係で、三井物産が出来た時、15歳で物産会社の小僧になる。(『延寿藝 談』)

 横浜富貴楼の話である。 新宿豊倉屋(今の新宿伊勢丹の一角)の遊女お倉 と、堀(山谷堀)の有名な芸者小万が、一人の男をめぐって争った。 男とは 亀次郎のことである。 お倉は小股の切れ上がったいい女で、谷中茶屋町(現 谷中6丁目)の身内で渡井丑五郎という鳶職の娘として生まれた。 上品で賢 いお倉は、誰が見ても遊女上りには見えなかった。 一方、堀の小万は、当時 の狂歌に、<詩は詩仙、書は米庵に、狂歌は及公(おれ)、芸者小万に、料理八 百善>とある堀のナンバーワンだった。(なお、大田南畝(蜀山人)の狂歌は、 「詩は五山」「詩は詩佛」「書は鵬斎」「役者は杜若」「傾(傾城の意か)はかの」 「芸者小勝」「芸者こかつ」などと、いろいろに書かれる。)

 明治6(1873)年、「富貴楼」を尾上(おのえ)町に移した時には、旅館も兼 ねた会席料理屋になっていて、「汽車で行く料理屋」として政府高官に大人気だ った。 その前年の明治5(1872)年に、新橋-横浜間にわが国初の汽車を敷 設した大隈重信と井上馨の二人は、特別な思いで汽車に乗り、横浜「富貴楼」 に通ったのだろう。 明治の元勲たち、中でも頑固で有名な大久保利通も、お 倉には一目おいていたという。 政財界人、高級官僚などのサロンとなった「富 貴楼」の女将お倉は、明治の政治を動かした女といわれ、明治の女傑に数えら れている。

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