松本良順の洋式病院「早稲田蘭疇医院」2017/07/14 07:30

 安井弘さんの『早稲田わが町』に、明治3(1870)年10月、一面田圃が広 がる早稲田に、二階建ての本格的な洋式病院「早稲田蘭疇(らんちゅう)医院」 が建てられたことが、詳しく書かれている。 私立の洋式病院開業は、これが わが国で初めて、建てたのは明治医学界の先駆者の一人、松本良順で、「蘭疇」 は良順の号だった。 松本良順は天保3(1832)年、順天堂の開祖佐藤泰然の 次男として生れ、のちに幕府奥医師松本良甫の養子となり、安政4(1857)年 幕命により長崎に留学、オランダの軍医ポンペに西洋医術を学んだ。 ポンペ の設計で建てられたわが国初の公立病院である養生所(病院)と医学校で、ポ ンペが養生所長、良順が医学所頭取を務め、ポンペを助けて教育と臨床にあた った。 文久2(1862)年江戸に帰り、幕府医学所が「西洋医学校」と改称し て、緒方洪庵が頭取を務めていた、副頭取となり、翌年洪庵が急死すると、32 歳で頭取となる。 この西洋医学校は、のちに大学東校と名を改め、明治10 (1877)年に至って東京帝国大学医学部となる。 良順は幕府に長崎の養生所 にならい、江戸に洋式病院の建設を申請したが、その計画は戊辰戦争に遭遇し て、消滅してしまう。

 良順は維新の戦いで弟子の医師たち9名で幕軍方に投じ、会津で戦傷者の治 療に当たり、鶴岡まで行く。 仙台の榎本武揚からの書状で、松島湾に碇泊中 の「開陽丸」に行き会見、蝦夷への同行を勧められるが、土方歳三が「先生は 前途有為なお方です。戦乱に巻き込まれ、命を失うようなことがあってはなり ません。江戸にお帰り下さい。私のような武事以外に能なき者は、力のかぎり 奮戦し国のために殉ずるのが定め。」と説いた。 良順は土方の言葉に従い、オ ランダの武器商人スネルのホルカン号で横浜へ密航し、横浜のスネルの商館に 1か月ほど身を隠していたが、官軍に捕らわれ取り調べの後、本郷加賀屋敷に 幽閉の身となる。

 1年後の明治2(1869)年に釈放され、自由の身となった。 長男銈太郎は 21歳になり、科学を学び仕官して、早稲田に住んでいた。 横浜居留地に幕府 御用商として医療器具や薬を納めていたオランダの商人ヒストルと、スウェー デン人シーベルネを訪ね、今後医術で生計を立てるつもりと話すと、無事を喜 び開業の資金として千円ずつの献金をしてくれた。 紀州公から同額の献金、 追って尾張公からも同様の支援を受け、静寂な早稲田の自然環境に魅せられた 良順は、穴八幡宮の向かいに広大な土地を入手、洋式病院の建設の夢を実現す ることになる。  『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』(鈴木要吾著、昭和8(1933)年東京醫事新誌 局刊)にある松本棟一郎(子息)の談話によると、北寄りの病院本館は4、50 ベッドの病室、南寄りの入院室には30人ばかりを収容でき、松本内塾といっ て3、40名の塾生がいた。 別に早稲田に20人ばかり収容できる外塾があり、 別に蘭疇舎という英学校があって、ドイツ人のオットヒッセルが英語とドイツ 語を教えていた。 この蘭疇舎出身者には、福島安正大将、松原新之丞水産講 習所長、田代正長崎医学校長などがいた。

 早稲田蘭疇医院には、診療を請い、入院する者が増え、蘭疇舎にも新知識を 求める青年たちが上京し、順風に乗って進んでゆく。 入院患者には洋食を与 えたり、牛乳を飲ませたりした。(馬場註 : 早稲田界隈にいくつか牧舎があり、 「高田牧舎」の名の由来にもなっているのは、ここから来ているのではないだ ろうか。) ある時、山県有朋が良順を訪ねて来て、廃藩置県の内示が出ている ことを告げ、軍医制度を発足するので兵部省に出仕するよう要請する。 半蔵 門の前方に広がる広大な敷地に、日本陸軍軍医部を新設し、軍医頭に任命され た。 明治6(1873)年に初代陸軍軍医総監になると、名を良順から「順」に 改め、早稲田の松本邸から軍医部まで馬で通った。 兵部省に軍医寮が設けら れてからの良は多忙を極め、蘭疇医院の院長として勤務することが難しくなり、 山県公に相談、山県公は早稲田蘭疇医院を軍医寮が借り受け、仮軍事病院とす ることを提案、順も同意して軍医の職務に専念することになった。

 『蘭学全盛時代と蘭疇の生涯』に、こんな記事があるそうだ。 松本良順が 陸軍軍医総監になって、蘭疇医院の建物は山瀬正巳に譲渡された。 山瀬正巳 は清水徳川家の臣で、この建物を利用して売薬合資会社資生堂を設立した。 こ れは越中富山市の俵屋が良順に図ったもの。 幕末医学所生であった福原有信 は医者に見切りをつけて大学東校調薬部に勤めていたが、商才を働かして良順 の勢力と三井組の資力後援を得て、銀座に資生堂の支店を設けた、これが現在 の銀座資生堂の起源である、と。 資生堂は早稲田蘭疇医院の建物で産声をあ げたことになる。