昭和2(1927)年7月<等々力短信 第1097号 2017.7.25.>2017/07/24 07:06

 90年を迎えた岩波文庫が創刊されたのは、昭和2(1927)年7月である。 岩 波文庫90年「掌(てのひら)の教養」(朝日新聞7月12日朝刊)に寄せた談 話で、山崎正和さん(劇作家・評論家)は、岩波文庫が創刊されたのはエリー トが大量生産された時代だったと言う。 学制改革で旧制高校が増え、私学も 専門学校から大学に昇格し、日本中にインテリがあふれ出た。 同じ頃に雑誌 『文藝春秋』も生まれた。 大正末期から昭和初期に新しい出版の動きが重な ったのは面白い現象だ。 朝日新聞や毎日新聞が100万部を突破したのもこの 頃、みんなが知的欲望を持ち、日本は「知的中流社会」になった。 ところが 今、活字文化は一斉に没落し、文庫はスマホに取って代わられながら、踏ん張 ってはいるが、総合雑誌も、新聞も厳しい。 つまり「総合の知」が没落して、 せっかくつくった知的中流社会を日本は手放すことになるかもしれない、と。

岩波文庫創刊と同じ月の24日未明、「何か僕の将来に対する唯ぼんやりした 不安」という遺書をのこして芥川龍之介が睡眠薬自殺をとげた。 今月講談社 文芸文庫で初の文庫化がなされた作家・野口冨士男最晩年の記念碑的労作『感 触的昭和文壇史』は、第一章「芥川龍之介の死」で始まっている。 野口は、 芥川の死の要因となったものが、文壇人として生活人としての彼の周囲に、十 重二十重に張り巡らされていたと見ている。

芥川が文壇の寵児だった文学史としての大正時代が過ぎ去って、「既成文学に 対立する若き昭和文学」が台頭し、二つの進路があった。 一つはプロレタリ ア文学、もう一つは前衛的なモダニズム文学への方向だった。 前者は中野重 治たち、後者は横光利一、川端康成、中河与一、片岡鉄兵、今東光らによる新 感覚派の文学運動だ。

大正12(1923)年の関東大震災後、上で山崎正和さんの語った時代、マス コミ出版界は不死鳥のように蘇り、大衆文学の進出が顕著で、「量における文芸 の黄金時代」を築く。 芥川も大阪毎日新聞社の社友、嘱託社員という立場に はあったが、いわゆる新聞小説の書き手ではなく、作家的体質は短篇作家に終 始した。 量産がともなわず、単行本の部数も少ないのは、「ぼんやりした不安」 の一因子かもしれない。

大正15年11月、昭和改元の1月前、改造社が発表した『現代日本文学全集』、 いわゆる円本の刊行という怒涛が、人気作家の芥川をまるごとのみ込んだ。 予 約募集の大量生産方式による不況乗り切り策が大当たり、予約読者はたちまち 23万にのぼった(後に4、50万)。 円本合戦は児童文学全集にまで及び、『日 本児童文庫』(アルス・『羅生門』を処女出版)と、菊池寛・芥川編集の『小学 生全集』(文藝春秋・興文社)の板挟みで、芥川はそうでなくてさえ繊細な神経 をいっそう痛めつけられるのだ。

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