再建された旧吉田茂邸を見学2017/08/02 06:57

 3月に鎌倉の鏑木清方記念美術館と居酒屋に行った仲間と、7月28日大磯へ 出かけた。 大磯在住の仲間の一人の案内で、第一の目的は今年3月再建され た旧吉田茂邸だった。 今回は家内もおまけで参加させてもらう。 涼しい内 にと朝9時に大磯駅集合、バスで城山(じょうざん)公園前へ。 旧吉田茂邸 は、明治17(1884)年に吉田茂の養父吉田健三が別荘として建てたもので、 吉田茂が昭和19(1944)年頃から、戦後の5期6年2か月の内閣総理大臣在 任中を経て、昭和42(1967)年に89歳で亡くなるまで過ごした邸宅だ。 没 後、西武鉄道が取得、大磯プリンスホテルの別館として利用していたが、平成 16(2004)年頃から地元を中心に保存の機運が高まり、県立大磯城山公園の拡 大地域として県が整備する計画を検討中、平成21(2009)年3月本邸が火災 で焼失してしまう。 その7月計画を再確認し、県が周辺を公園として整備、 大磯町が旧吉田茂邸を町有施設として再建することになった。

 旧吉田茂邸は、昭和22(1947)年に建てられた応接間棟、昭和30(1955) 年代に近代数寄屋建築で有名な吉田五十八が設計した新館を中心に再建されて いる。 靴を脱いでスリッパになって上がると、檜の香りが満ち、座敷には畳 の匂いがして、清々しい。 吉田五十八が空間を広く見せるために柱をなるべ く見せない造りにし、新館2階「金の間」の広く取ったガラス窓からは、相模 湾や箱根の山々、この日は見えなかったが富士山が一望できる。 地元の船大 工が作ったという舟形の檜風呂(というよりバス)が素敵だ。 ローズルーム という大テーブルの食堂は、いかにも英国大使を務めた外交官らしく、壁面が 元は子羊だったという皮張りで、今は研修室となっている地階はワインセラー だったそうだ。 勲章などが並んでいる展示室で、吉田茂の業績を物語る短い ビデオが流れていた。 戦後まもなく冷戦の時代となり、昭和25(1950)年 の朝鮮戦争勃発後、アメリカのダレス特使が講和条約交渉で来日、日本の再軍 備を要求したのを、吉田首相が経済復興を優先して断固拒否した話が、印象深 かった(同年、警察予備隊、昭和27(1952)年保安隊創設)。 書斎や寝室に は、吉田の蔵書が並んでいる。 没後、大磯町の図書館に寄贈されたので火災 を免れ、ここに戻されたという。 『朝の机』『秩序ある進歩』『河流』『一つの 岐路』『わが日常』『ペンと剣』など、小泉信三の著書が沢山あった。

 昭和36(1961)年頃、中島健の設計で完成した日本庭園に出て、「七賢堂」 へ登る。 元々は伊藤博文が明治36(1903)年に大磯の自身の邸宅「滄浪閣」 に岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀って建て、その死後、 伊藤博文を加えて「五賢堂」となった。 昭和35(1960)年に吉田邸に移設 されて、昭和37(1962)年に吉田が西園寺公望を合祀し、吉田死後の昭和43 (1968)年佐藤栄作の名で吉田茂が合祀され「七賢堂」となったもので、正面 の扁額「七賢堂」は佐藤栄作の揮毫だそうだ。 さらに進むと、西湘バイパス を見下ろし、相模湾、富士山、伊豆半島、房総半島が一望できるところに、吉 田茂の銅像がある。 いかにも好々爺といった、穏やかな表情をしている。 昭 和58(1983)年の建立で、昭和26(1951)年の講和条約締結の地、サンフラ ンシスコと首都ワシントンの方角を見ているのだそうだ。