権太楼の母親物語と明学オチケン事始め2017/08/07 07:09

 『噺家の了見 柳家権太楼』の続き。 柳家権太楼は、北区滝野川の生まれ育 ち。 マクラで、料理ができず総菜屋さんに頼り切りだったと聞いたことのあ る母親の静子さんには、こういう物語があった。 深川・木場の大工の棟梁の 跡取り娘で、10代から帳場を仕切り、40人の若い衆を指図していたのだが、 19歳の時、一番弟子を婿にと言われて、相手が気にくわない。 男前で仕事が できる三つ年上の下っ端職人梅原光に目をつけ、永代橋のたもとで待伏せして 説得、知り合いを頼って滝野川へ駆け落ちした。 兄につづき、昭和22(1947) 年、梅原健治、後の柳家権太楼が生まれる。 父親の腕がいいから請負仕事が 来て、生活には困らなかったけれど、お嬢さん育ちの静子さんはご飯の炊き方 も知らなかった。 「ウズラ豆が好きと言ったら、弁当のおかずは半年ウズラ 豆。仕事場で『ウズラ豆の光ちゃん』と言われた」とぼやいても、「お嬢さん」 には逆らえない。 料理は総菜屋さんに頼り切りで、自分は小唄や踊りの稽古。  母親が自由人だったおかげで、権太楼は小学生の時から寄席に連れて行っても らえた、と言う。

 高校時代は「1人落語部」状態、友達がザ・ビートルズにシビレている時、 立川談志師匠がスーパースターだった。 高校2年の文化祭で談志そっくりの 「うそつき弥次郎」を演じたらバカウケ、一躍クラスの人気者になった。 大 学は、地元だし、野球が強くて、学生がおしゃれな立教にあこがれたが、試験 問題と意見が合わず、2度も受験に失敗、結局明治学院に入った。

 「大学でも落語ざんまい」と勇んで出かけた初日、驚愕の事実が待っていた。  明学には落語研究会(オチケン)がなかった! その頃、青山学院、國學院、 東海のオチケンが「渋谷三大学落語会」を開いていて、何人かうまい先輩がい たのを思い出し、扇子と手ぬぐいを持って、渋谷の町へ。 駅から一番近い青 山学院へ行き、友達も知り合いもいないオチケンの部室の戸を叩いた。 「明 学の学生です。落語を教えてください!」 落語できるのか、やってみろ、と いうんで、当時すでに17席あった持ちネタの内、十八番の「野ざらし」を演 じたら、先輩たちの顔色が変わった。 「明日から来いよ」 道場破り、成功。

 「先生、青山学院のオチケンの稽古があるので帰ります」 明治学院入学早々、 授業をボイコットしたら、校内で「会員求む落語研究会」というポスターを見 つけた。 明学にもオチケンができたのだ。 部室では1年生が数人、ぼうっ としているだけで、オチケンをつくったものの、何をすればいいのかわからな い。 俺が知ってるよ! 青学で習ったばかりの稽古法や発声練習を教えた。  これが、後に三遊亭右紋、春風亭正朝らを輩出する明学落語研究会の事始めだ という。  私は以前、「創立150周年、明治学院の落語家たち」<小人閑居日記 2013. 6.30.>を書いていた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2013/06/30/6881989

 柳家権太楼夫人の智子さんが、青山学院のオチケン部員だった話は、また明 日。