智子夫人との馴れ初めと内助の功2017/08/08 07:13

 明治学院と青山学院のオチケンで稽古し、他校の学園祭に飛び入りで一席や っていた梅原健治青年、後の権太楼、老舗のホール落語会で、何度も青学のオ チケン部員の智子さんと出くわした。 当時の女子部員、「落語」はやらず、「研 究」専門、つまり落語を聴くのだ。 酒好きで、甘い物が嫌いな彼女に、デー トで酒を仕込まれて、「落語と飲み」の繰り返し。 彼女とは、落語の見方、感 じ方がまったく同じ、つまり「落語観」が一致した。

 60年代後半、学園紛争で明学もロックアウト、試験が全部リポートになった。  「この本の文章をつなぎ合わせて1本書いて!」と、彼女に頼んだら、成績が 「C」に下がっちゃった。 大学1年生の時、入門に行き「大学を辞めるか、 卒業してから来なさい」と断られた柳家つばめ(五代目、大卒の噺家第一号) に、卒業後に弟子入りした1970(昭和45)年春、彼女のアパートに転がりこ んで、当時流行の同棲時代。 芸名は柳家ほたる、師匠は放任主義だったけれ ど、だいたい見習い、前座は、酒、たばこ、結婚禁止だから、幹部の師匠連に は知られたくない。 入門5年目の1974(昭和49)年9月に師匠柳家つばめ が46歳で亡くなり、葬儀の日「俺の片腕が」と号泣した大師匠五代目柳家小 さんに引き取られる。 1975(昭和50)年秋、二ツ目に昇進し、柳家さん光 となる。 つばめにもらった前名ほたると「ほたるの光」で、父親の名の「光」 にもつながった。 青山での二ツ目昇進披露パーティーで、結婚披露の報告も した。

 その4年前、見習いから前座になる頃のこと、カミサンになる智子さんは、 山梨のお堅い家のお嬢さん、大学卒業後は「早く帰って見合いをしろ」と両親 から矢の催促。 でも、彼女の部屋には柳家ほたるがいる。 もう、二人で山 梨に行くしかない。 お父さんに「うちの娘と一緒になってくれるんですか?」 と聞かれ、「娘さんと落語、どっちを取るかと言われれば、落語を取ります。落 語という夢を追い続けるのが僕の人生。それをサポートしてくれるなら一緒に なります」 殴られるかと思ったら、「気に入った! 自分の思いをはっきり言 う人は信頼できる」と。 帰京した智子さんから一部始終を聞いた、母親の静 子さんがすぐ彼女と山梨へ飛び、「時期が来たら、この私が責任を持って二人を 結婚させます!」と宣言した。 その「時期」が二ツ目昇進だった。

 智子さんは、その後、「権太楼落語」確立のために、なくてはならない存在に なる。 噺家はたいてい台本を作るのだそうだ。 稽古の時、師匠が本番同様 に演じてくれたものを録音し、後でノートに書き起こしをする。 権太楼は、 前座時代から書き起こしなんてしたことがない。 台本作りは全部、智子さん の役目だった。 大学のオチケン仲間で落語好きだから、噺を一言一句忠実に 再現できるのだ。 若い頃は子供を何時間も他所(よそ)に預け、部屋に閉じ こもって、30分のネタを3日かけて書き起こしていたという。