順風満帆ではなかった噺家人生2017/08/09 07:06

 柳家権太楼の噺家人生は、けして順風満帆というものではなかった。 落語 界は60年代から入門者が急増、楽屋には前座があふれ、新規の弟子は楽屋に 入れてもらえず、「前座見習い」として前座枠が空くのを待つ、順番待ちが3 年といわれた。 毎朝、師匠宅へ行って掃除や雑用をし、ご飯をいただくと、 もうやることがない。 昼はデパート屋上の歌謡ショーや結婚式の司会、スー パーで主婦を相手にラジオの生放送、夜はキャバレーの余興。 そしてイベン トの司会、ラジオやテレビのリポーター。 営業は全力でやったから、とぎれ ることなく仕事が来る。 アルバイトのお陰で小遣いには困らないけれど、前 座になってから、落語協会の理事会で「ワースト前座」の三人に入った。 理 由は「寄席に来ないから」。 あと二人は、春風亭小朝さんと、三遊亭楽太郎(現 円楽)さん。

 師匠柳家つばめが亡くなって、素直に小さん門下に入る気にはなれなかった。  喪失感が重く大きくのしかかってきて、自由勝手な噺家生活を満喫してきてい たから、初めて壁にぶち当たった。 小さんは優しかった、何か仕事があると、 他の直弟子を差し置いても「一緒に来い」と声をかけてくれた。 1975(昭和 50)年秋、二ツ目に昇進、柳家さん光になったけれど、「あいつはタレント、 落語なんてできないよ」とレッテルを貼られて、老舗のホール落語会や地方の 有力落語会、全国を巡回する学校公演など「落語だけの仕事」には使ってもら えない。 二ツ目の2年目、3年目も悪循環が続く。

 気がついたら、タレント業でも落語でも、仕事がなくなっていた。 3歳に なる娘と散歩に出たら、神社の前で熱心に拝んでいる。 「あの子は信心深い ね」と、カミサンに話したら、「違うのよ。あたしが毎日、あの子を連れて「パ パに仕事が来ますように」ってお参りしていたの」 ショックを受けて、その 足で新宿末広亭の「深夜寄席」へ行き、「落語をやらせてくれ」と二ツ目仲間に 頭を下げた。 そして黙々と高座に上がり続けることになる。 1978(昭和53) 年6月、噺家さん光の、第二のデビューだった。

 当時の得意ネタは「反対俥(ぐるま)」。 力を試す機会は、意外に早くやっ て来た。 その年の9月、NHK新人落語コンクールに出場が決まり、決勝の6 人に残った。 「敵」は同期の二ツ目、本命の春風亭小朝さん、渾身の「反対 俥」に客席は沸きに沸いたが、結果は小朝さんが下馬評通りの最優秀賞、さん 光は次の優秀賞、不満だった。 1か月後の放送で、初めて小朝さんの「稽古 屋」を見た。 自分が審査員でも、この人に入れる。 華がある、色気がある、 口調もいい。 完敗を認めたら、不思議とさわやかな気分だった。

 放送後まもなく、浅草演芸ホールが番組後半の重要な出番に起用してくれ、 上野鈴本演芸場からも声がかかる。 「お前の落語、面白いよ」やっと、皆が 気づいてくれた。 それまで年間60席だった寄席の出番が、月間60席に急増。  一時なくなっていたタレント仕事も、落語で認められたら戻ってきた。 この 年、柳家さん光、のちの柳家権太楼は「大化け」した。