真打昇進と「噺家人生計画」の挫折2017/08/10 07:07

新人落語コンクールの後、師匠小さんの推薦でNHKテレビの新番組「お達 者くらぶ」の出演が決まった。 講談師の神田山陽先生とコンビで「当世あま から問答」、落語と同じご隠居とそこへ遊びに来る若い衆、ニュースがわからな いと専門家の先生に教えを請う。 宇野千代さん、楠本憲吉さん、倉嶋厚さん、 どういうわけかかわいがってくれて目白台のお宅まで飲みに伺っていたのが、 ドイツ文学者で横綱審議会委員長だった生粋の江戸っ子、高橋義孝先生。 「お 達者くらぶ」は、相方が神田山陽先生から「男はつらいよ」の「とらや」のお ばちゃん、女優の三崎千恵子さんに代って8年続き、数百人の先生が寄ってた かって、何も知らない若手噺家に世の中の森羅万象をたたき込んでくれた。 そ れがどれだけ身についたかは……、いつか高座でね。

カミサン、智子夫人の内助の功の台本ができると、歩きながらブツブツとし ゃべる。 家を出て公園を突っ切り、どこまでも歩く。 次は噺の分析。 ど こがポイントか、無駄はないか。 稽古百遍。 登場人物が演者の下を離れて 自在に動き出したら、噺に肉付けをする。 目の位置、仕草、声の張り方。 家 から一番近い池袋演芸場、改装前は夜席のみの興行、開場前に支配人に鍵を開 けてもらい、照明も冷房もつけず、ステテコ姿で無人の客席に向かって、稽古 した。 噺家を長くやってりゃ、しくじることも、客に蹴られる(ウケない) こともある。 そんな時、心の支えになるのは「俺はあんなに稽古してるんだ」 という事実だけなんだ。 高座に完璧なんてないことを、権太楼は稽古から学 んだ。

1980(昭和55)年春、小朝さんが先輩を36人抜いて、真打に昇進した。 そ れを追い、2年後の1982(昭和55)年秋、18人抜きで念願の真打に昇進、三 代目柳家権太楼を襲名し、全力疾走で50日間の披露興行をこなした。 35歳 だったから、ひそかに「噺家人生長期計画」を立てた。 10年単位で、まず「権 太楼落語」を作る。 「反対俥」で満足せず、「芝浜」「文七元結」「らくだ」な どの大ネタに挑戦する。 次の45歳からの10年で、「権太楼は面白いぞ」と 世間に知ってもらう。 55歳からの10年は、完成品に仕上げる時期。 65歳 からの最終チェックが済めば、70歳以降は「権太楼落語」から入る「年金」で 悠々自適。

披露興行では「くしゃみ講釈」「大工調べ」など爆笑ネタでウケていたが、す ぐ鈴本から裏が返った(次の依頼)ので、上方の人情噺「たちきり」で勝負し た。 学生時代、桂小文枝(後の五代目文枝)師匠の「たちきり」で号泣した のが忘れられなかったからだ。 終演後、寄席の階段を降りて行くと、若いカ ップルの男の子が謝っている、「権太楼は本当は面白いヤツなんだよ。こんな泣 かせる噺で。ゴメンゴメン」 面白落語で売ってる俺が、客のことも考えず、 人情噺で悦に入ってた。 そんなのプロじゃないよな。 自信満々でこしらえ た「長期計画」は、第一歩でずっこけた。 「たちきり」は封印、これから10 年かけて人情噺もできる「体」を作っていく。 それが「第1期10年計画」 なのだから。 爆笑落語の原点に戻った柳家権太楼は、上方落語の大物に注目 することになる。 それは、また明日。

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