藤原工業大学と高橋誠一郎文部大臣2017/08/15 06:56

 『福澤諭吉 慶應義塾史 新収資料展』、都倉准教授の解説の続き。

 (4)藤原工業大学と慶應義塾。 藤原銀次郎戦犯指定に関する藤原工業大 学生及び卒業生より連合国総司令官マッカーサー宛嘆願書(1946(昭和21) 年5月4日)。 「工業大学卒業生諸君に謝す」(村井宇之助宛藤原銀次郎書簡 (1946(昭和21)年6月21日)。) 藤原工業大学は、王子製紙の社長だった 塾員の藤原銀次郎が、昭和14(1939)年6月日吉に創設した大学。 藤原は 創設前から、理学・工学の新学部設立を検討していた小泉信三塾長と十数回会 談し、藤原工業大学の義塾への寄附を含めた合意を経て、設立認可に至った。  時局の変化による国の圧力があり、藤原工業大学はあと1か月で卒業生を出す ところで、1944(昭和19)年8月、慶應義塾大学工学部となった。 資料は、 米内光政内閣の商工大臣を務めた藤原銀次郎が戦後戦犯指定されたのに関し、 卒業生の出した嘆願書と、それに対する藤原の礼状だ。 嘆願書は、藤原が私 財を投じて大学を創めるについてスタンフォード大学とジヨルダンを学風の手 本とし、藤原工業大学で「ジヨルダンとフクザワ」を教科書として学生に読ま せたこと、英語を重要視して特別な英語教育をしたこと、先生から国際的な自 由な、明るい教育を受け、先生の何処にも超国家主義者らしい匂いを感ずるこ とはなかったという印象を述べている。

(藤原工業大学については、大学教育の役割、清家塾長の年頭挨拶<小人閑居日記 2013. 1. 23.>、防衛大学校と慶應義塾、初代槇智雄校長<小人閑居日記 2017.1.7.>参照)

 (5)教育基本法を成立させた高橋誠一郎文部大臣。 教育勅語と教育基本 法の関係に関する答弁草稿(昭和22年3月19日)。 我妻栄による民法改正 に関する文部大臣への質問概要(昭和22年3月29日)。 それに対する答弁 草稿(同日)。 草稿(教育基本法・学校教育法成立にあたって)(昭和22年4 月1日)。 議会の速記録と照合すると、官僚の用意した答弁草稿にはないこ とを、高橋誠一郎文部大臣が言っていることがわかる。

 (高橋誠一郎文部大臣については、高橋誠一郎文部大臣と『帝室論』<小人閑居日記 2007. 6.20.>、『手控□高橋誠一郎略年譜』<小人閑居日記 2007. 6.21.>、米山光儀さんの「「修身要領」再考」(1)<小人閑居日記 2012. 5. 23.>、米山光儀さんの「「修身要領」再考」(2)<小人閑居日記 2012. 5. 24.>、「修身要領」と教育基本法(1947年)<小人閑居日記 2012. 5. 25.>参照)