吉田茂に英語を教えた久保(小澤)市三郎2017/08/21 07:20

吉田茂は、横浜の貿易商吉田健三の養子となったが、養父健三が若くして亡 くなり、11歳の茂は莫大な遺産を相続、少年期は大磯町西小磯で義母に厳しく 育てられ、漢学や英語を学んだ事情も、書いていたので、長くなるが再録して おく。 吉田茂が学んだ耕余義塾<小人閑居日記 2009. 3.25.> 久保市三郎(旧姓小澤)という人物<小人閑居日記 2009. 3.26.> 『久保市三郎翁傳記』吉田茂の序文<小人閑居日記 2009. 3.27.>

    吉田茂が学んだ耕余義塾<小人閑居日記 2009. 3.25.>

 吉田茂さんの話が出て、昨年12月の福澤諭吉協会の土曜セミナーで、同席 した鈴木安三さんに吉田茂に英語を教えた人の話を聞いたことを思い出した。  鈴木さんは藤沢市にお住いで、近くの旧高座郡羽鳥村(後の明治村。現在は藤 沢市)に存在した耕余義塾について調査していらっしゃる。 ここは明治5 (1872)年、名主が小笠原東陽を招いて創始した漢学塾だったが、東陽が没し 娘婿の松岡利紀が塾長となった頃、これからは漢学だけではいけないというこ とになった。 慶應義塾の福沢諭吉に依頼して、明治20年9月に派遣された のが小澤市三郎(のちに久保姓となる)で、この人から吉田茂が英語を学んだ というのだ。 慶應からは、その後、内山守倫、田中元次郎の二名が派遣され たという。

 吉田茂は、明治11(1878)年9月22日、高知県宿毛出身の自由民権運動の 闘士、竹内綱の五男として東京神田駿河台に生れた。 明治14(1881)年8 月、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会横浜支店長) 吉田健三の養子となる。 明治22年に養父健三が若くして亡くなり、11歳の 茂は莫大な遺産を相続した。 少年期は、22日に焼けた大磯町西小磯で義母に 厳しく育てられ、戸太町立太田学校(現在の横浜市立太田小学校)を卒業後、 明治22(1889)年2月、耕余義塾に入学し、明治27(1894)年4月に卒業す る。

 ここに、吉田茂と小澤(久保)市三郎の接点があった。

  久保市三郎(旧姓小澤)という人物<小人閑居日記 2009. 3.26.>

「未来をひらく 福澤諭吉展」を見て、「きりひらく実業」の「もう一つの福 澤山脈」が好企画だと書いたが、鈴木安三さんがお調べになっている久保市三 郎(旧姓小澤)という人物も、まさしく「もう一つの福澤山脈」なのであった。  鈴木さんが送って下さった『久保市三郎翁傳記』(昭和32年2月25日、同書 刊行会刊)の年譜コピーによると、小澤市三郎は慶應3(1867)年、埼玉県北 埼玉郡三田ヶ谷村大字彌勒の生れ、羽生中学校、明治義塾などを経て、明治17 (1884)年10月慶應義塾入学、明治20年4月全科卒業、9月神奈川県高座郡 耕余義塾教師に就職。 明治23(1890)年1月、耕余義塾を退職し、慶應義 塾大学部理財科に入り直す。

 明治26年1月、慶應義塾大学部理財科を卒業(第一回・答辞を読む)して、 一旦は日本銀行に入るが、わずかしか勤めずに、福沢の推挽で、栃木県芳賀郡 中村寺内の久保家の養子となり、以後、栃木県の産業経済金融教育の各方面の 開拓啓蒙指導に活躍した。 「昭和28(1953)年1月10日、福沢先生誕生記 念講演を三田講堂(?)にて行う」という記述もある。 昭和31(1956)年 満88歳で没。 伝記刊行会代表者の「凡例」という序に、「もし、中央に留ま っていたら、藤山雷太、池田成彬両氏等と共に、堂々その手腕を発揮し得たで あろう」とある。 久保市三郎は、福沢の唱えた「ミッズルカラッス」、地域の 近代を担う開明派リーダーとなり、生涯を貫いたのだ。

鈴木さんに訊かれて、『慶應義塾史事典』の索引を調べたのだが、「久保市三 郎」も「小澤市三郎」も、なかった。 当然、福沢との手紙のやりとりがあっ ただろうと、『福澤諭吉書簡集』や、丸山信編『福沢諭吉とその門下書誌』にも あたったが、見当らない。 辛うじて、『福澤諭吉全集』の索引に、「小澤市三 郎」があり、19巻353頁の該当個所は、福沢の明治18年6月6日からの「土 曜会名簿」で、6月26日の項に「埼玉県北埼玉郡彌勒村 小澤市三郎」とあ った。 「土曜会名簿」というのは、解説に「在塾の学生を毎土曜日順々に自 宅に招いて談話したときの住所氏名の記録であらう」とある。

 栃木県の久保家の方から調べると、福沢の書簡その他の資料が出てくる可能 性があり、「もう一つの福澤山脈」が明確な姿を現すかもしれない。

 『久保市三郎翁傳記』吉田茂の序文<小人閑居日記 2009. 3.27.>

『久保市三郎翁傳記』(昭和32年2月25日、同書刊行会刊)に、吉田茂が 序文を寄せている。 以下は、その全文である。 埼玉県生れを「東北弁」と 言っており、耕余塾退職後慶應義塾に復学したことは知らなかったようだ。

「自分は幼時に、藤沢在羽鳥村の耕余塾と云う漢学塾に入れられたが、当時 の舎監、教頭兼英語教師が久保市三郎翁であつた。 これは、今より六十余年前の事であるから、記憶も不確かであるが、子供心 に寄宿舎生活の愉快な事、余り勉強もしなかつたが、それでも当時習つた漢学 は、今尚記憶に残り、四書、五経等の文句は、時に思い浮ぶのである。久保翁 は慶應義塾卒業直後、年少気鋭の英語教師にて、東北弁の熱弁を以て講義せら れた風貌は、今尚記憶に新しい。翁は在任二年余りにて郷里に帰られ、後に多 額納税者議員として貴族院に出られた。自分は外務次官で、時々公会の席上、 翁をお見かけしたが、親しくお話する機会はなかつた。終戦後、偶々宇都宮地 方に自由党の遊説に行つた折、ふと思い出して翁を尋ねた所、翁は非常に喜ば れ、自ら畑より西瓜を取り来り饗応せられ、自ら指を切られるなど、厚きもて なしを受け、愉快な一時を過す事が出来た。その後一、二度宇都宮へ行く度に、 宇都宮まで出て来られお目にかかつた。 又季節毎に栗とか、その他野菜を送られるなど、音信も絶えず何時までも自 分に対しては、十一、二才の子供に対する様な温情を示され、常に有難く感じ て居つた。昨年、突然訃報を得て、一時呆然たらざるを得なかつたのである。 誠に悲しい事である。が、翁の一家繁昌、子孫にとりまかれての大往生なれば 思い残す事はなかつたであろうが、御遺族、友人等は長く翁の遺徳を追懐して やまないであろうと思う。            吉田茂 記す」