小野ファミリーのミッション(使命)2017/08/24 07:12

 「オノ・ヨーコのファミリー・ヒストリー」のつづき。 同志社政法学校教 授として苦労していた小野英二郎は、明治29(1896)年、川田小一郎総裁に 誘われて、銀行運営を総覧する総裁のアドバイザーとして日本銀行に入る。 ヘ ンリー・アダムスとの合著『公債論』も出版する。 日本は、経済、財政を盛 んにして、国の基盤をつくり、国の文化を大事にして、世界の人々には平等に、 世界のために貢献することというのが、小野英二郎の持論だった。 大正12 (1923)年には58歳で、日本興業銀行総裁になる。 半年後の9月1日、関 東大震災で試練に直面、銀行の取付け騒ぎに遭う。 海軍からの川崎造船への 融資要請を突っぱねるなど、硬骨ぶりも示した。

 小野英二郎には7人の子があり、長男俊一は動物学者、次男篤二は鶴の実家 税所家を継ぎ美術の道へ、三男英輔がヨーコの父となる。 英輔は帝大で数学 を専攻したが、英二郎に銀行家になることを期待され、経済学を学んで、横浜 正金銀行に入る。 父英二郎は63歳で亡くなった。 英輔は、昭和6(1931) 年夏軽井沢の安田財閥の別荘で、安田善次郎の孫・磯子と出会う。 磯子は、 善次郎の娘暉子と婿善三郎の娘。 善三郎は安田財閥を任されるが、金融より 製造業に向かい、釘の生産にのめり込んで失敗、会社を追われ、善次郎が復帰 したりした。 でも磯子は財閥のお嬢様として育ち美人、身長1メートル80 の英輔とはハンサムカップルと言われ、昭和6(1931)年11月9日結婚、昭 和8(1933)年2月18日、洋子(ヨーコ)が誕生する。

 小野英輔は、横浜正金銀行のサンフランシスコ支店を経て、昭和12(1937) 年ニューヨーク支店勤務となる。 家族は帰国、磯子の兄安田岩次郎が建てた 九段下の、今はフィリピン大使館公邸になっている屋敷に住んだ。 英輔は、 昭和17(1942)年ハノイ支店副支配人となる。 横浜正金銀行は国策銀行で、 一部の軍の資金の調達窓口だったという。 戦争中、母磯子と洋子、啓輔(4 歳下)、節子(8歳下)の一家は、信州佐久に疎開した。 今はワシントンDC 在住で、世界銀行で働いた節子さんは、四大財閥のお嬢様だった母はさぞつら かったろう、東京に帰る時も、トラックなどの交渉を12歳の姉洋子がしたと、 語った。

 昭和21(1946)年になって英輔帰国、昭和22(1947)年東京銀行外国部長 兼秘書室長となる。 毎朝、ピアノで磯子のリクエストのショパンなどを一曲 弾いて、出勤した。 日本が独立した昭和27(1952)年、東京銀行ニューヨ ーク支店の初代支店長となる。 学習院大学哲学科にいた洋子もニューヨーク へ、サラ・ローレンス大学で詩と声楽を学んだ。

 洋子は、既存のアートとのずれを感じ、ニューヨークで独自のアート(前衛 芸術)に打ち込むようになる。 家を出て、最初の結婚もする。 アルバイト などをしていたのだろうが、母は助けなかったと、節子さん。

 父英輔が昭和27(1952)年、日本への出張中に脳血栓で倒れる(55歳)、一 命は取り留めた。 その後、湘南で啓輔の家族と穏やかに暮らし、昭和50(1975) 年に73歳で永眠した。

 オノ・ヨーコのパフォーマンス「カット・ピース」などは、次第に評判にな る。 1962(昭和37)年には東京で個展を開くが、酷評にさらされた。 ベ トナム反戦運動の高まりとともに、1964(昭和39)年の作品「グレープフル ーツ」などが認められ、1967(昭和42)年にはジョン・レノンと結婚する。  1971(昭和46)年の「イマジン」には、「グレープフルーツ」の全ての人々が 平和に暮らせたら、世界は一つ、という姉の考え方が影響していると、節子さ んは言う。 自分も1976(昭和51)年に世界銀行に入行したのは、日本のた めに何かしたいと考えたからで、祖父、父、姉、小野家には、何しろ頑張って 働くという「ミッション(使命)」を持ってしまうところがある、と語った。