明治学院・大石内蔵助と福沢諭吉の終焉の地2017/10/13 07:26

 畠山記念館から、佛所護念会の前を通って、明治学院へ行った。 岡田幸次 郎さんが、私が明治学院の中学を出たのを知っていて、コースに入れてくれた のだ。 当時は、池上線の荏原中延から五反田に出て、都電の4番で白金猿町 の次の二本榎の明治学院まで通っていた、その先が清正公前だった。 歩こう 会一行で明治学院に入ると、たまたま礼拝堂(チャペル)で高校のPTAが音楽 会か何かを始める前だったので、頼んで礼拝堂の内部を覗かせてもらった。 大 正5(1916)年の建設で、ウィリアム・ヴォーリズの設計、朴訥な木の椅子が 並んだチャペルの雰囲気を味わってもらう。 中学時代は、毎朝ここで礼拝を し、聖書の朗読を聴き、祈り、讃美歌を歌った。 入学式、学期末の式、卒業 式などもここで行った。 キャンパスを奥に進むと、創設者ヘボンの胸像があ った。 横浜開港と同時に来日したアメリカ人宣教師ヘボン(James Curtis Hepburn,1915-1911)は、人々に医療を施し、“ヘボン式ローマ字”を考案、 本格的な和英・英和辞書『和英語林集成』を編纂して、聖書の日本語訳を完成 させた。 文久3(1863)年に、妻クララと共に横浜に開設した《ヘボン塾》 は、その後、移転して築地のミッションスクールとなり、ここ白金の明治学院 へと発展した。 胸像の銘板にあったHepburnを示して、ヘボンは映画『ロ ーマの休日』のオードリー・ヘップバーンと同じで、幕末の発音だと話した。  東門から桜田通りに出て、清正公覚林寺の前を横断、まっすぐ三田へ向かうの かと思ったら、芝白金三光町育ちの岡田さんが、一味違うコースを用意してい た。

 落語「井戸の茶碗」は、気持のよい噺だ。 舞台は清正公界隈で、細川家の 屋敷に住む若侍が登場する。 芝志田町で育った父は、晩年まで五月五日には 清正公(せいしょこ)様のお参りを欠かさなかった。 父の話では大正時代、 昭和天皇が幼少の頃に住んでいた東宮御所があり、私が知っている光輪閣、高 松宮邸のある一帯が、肥後熊本五十四万石細川越中守家の下屋敷だった。 幼 少の昭和天皇が自転車で坂を下りて、町に飛び出してしまい、大騒ぎになった ことがあったそうだ。

 桜田通りを渡った下の道から、急な細道を上がると都営高輪アパートがあり、 その片隅の崖上に「大石良雄外十六人忠烈の跡」があった。 赤穂浪士の大石 内蔵助良雄ほか16人は、元禄16年2月4日(1703年3月20日)、熊本藩細 川家の下屋敷で切腹した。 ちなみに、息子の大石主税良金ら10人は、三田 の慶應義塾の隣、今はイタリア大使館のある、伊予松山藩の屋敷で切腹した。  旧細川邸のスダジイ(東京都指定天然記念物)の横を通って、ここでも「裏ワ ザ」、高輪区民センターのエレベーターで桜田通りへ降りた。

 魚籃坂下の交差点を渡り、長松寺で荻生徂徠(1666-1728)の墓を見た。 荻 生徂徠(1666-1728)は江戸中期の儒学者・思想家・文献学者で、柳沢吉保に 出仕、徳川吉宗に重用された。 初め朱子学を学び、のち古文辞学を唱道した。  長松寺の先の、幽霊坂で右折、実はこの坂の途中を右に入った御田(みた)小 学校の手前の南台寺にわが家の墓地がある。 父は御田小学校を卒業したから、 百年近い後輩の子供たちの声を聞きながら眠っているのだ。 その道を曲がら ないで、すぐの右にある玉鳳寺に寄ったら、御化粧延命地蔵尊があった。 「お しろい地蔵」と呼ばれる白い地蔵様で、美白を願う人がお参りするそうだ。 顔 の回りを撫でるのだろう、少し黒くなっている。 「御化粧」で「延命」だそ うですよと、竹内富美子さんに声をかける。 撫でると、手に白いものがつく ようだった。 南台寺へは、いつも魚籃坂から入るので、灯台下暗し、こんな 地蔵尊があるのを全く知らなかった。

 玉鳳寺門前の坂を下り、桜田通りへ出、演説館の崖下に最近出来た慶應義塾 グッズや本などを売る三田インフォメーションプラザの前を通って、正門から 三田キャンパスに入った。 右手の坂を上ったところに、福沢邸跡がある。 明 治34(1901)年2月3日、福沢諭吉はこの自宅で亡くなった。 昭和46(1971) 年に大正10年三田会が三田移転百年を記念して建てた「福沢諭吉終焉之地」 の記念碑、その隣の福沢先生の字で(私が「我々のことを言った」と形容した) 「気品の泉源、智徳の模範」の碑を見た。 ここで幹事の行き届いたお世話で、 楽しい一日を過ごすことのできた志木会・歩こう会は解散となった。 4時少 し過ぎ、私の歩数計は24,776歩になっていた。 最年長でヨタヨタながら、 何とか元気で毎年付いて歩けるのが有難い。