和子さんの研究「身に入む」なぜ秋なのか?2017/10/16 07:00

 「身に入む」と「菊人形」の句会の季題研究は、児玉和子さんの担当で「身 に入む」を選択し、「身に入む」がなぜ秋なのか? を探求した。 そう言え ば、俳句には「爽やか」秋、「月」秋、「夕焼」夏、「滝」夏、「蛙」春など、別 の季節にもあるじゃないかと思われる季題がある。 『歳時記』を見ると、こ うある。 「爽やか」…日本の四季の中では、秋が最も清澄な感じがする。 「月」 …秋は四季の中でもっとも大気が澄むので月のさやけさもひとしおである。  「夕焼」…四季にわたってあるが、夏の夕焼はもっとも華やかで壮快である。  「滝」…ときに清涼さを感じさせる。 「蛙」…田圃などで鳴く蛙の声は、晩 春の田園風景の中でなつかしいものである。最も鳴き立てるのは交尾期で、雄 が雌をさそうのである。

 さて、児玉和子さんの「身に入む」だが、講談社『日本大歳時記』、角川『俳 句大歳時記』を参照して説明した。 平安時代半ば以後に愛用された言葉で、 もともと「染みるほど、あるいは濡れとおるほど、身に深く感じる」意で、恋 の歌などに使われ、まだ季感を持っていなかった。 だが、「もののあはれ」が 秋の情趣にしぼられてくるようになって、言葉に秋の季感がまつわり始め、秋 の哀れをまず告げ知らせる秋風について言うことが多くなった。  <秋吹くはいかなる色の風なれば身にしむばかりあはれなるらん>和泉式部 (『詞花集』巻三秋)などを経て、<夕されば野べの秋風身にしみて鶉(ウヅラ) 鳴くなり深草の里>藤原俊成(『千載集』巻四秋)の歌が喧伝され、この語の季 感を決定的なものにした。

 和歌で「あはれ」を主調としてこの語を用いたのに対して、俳諧ではもっと 対象的、感覚的に感じとって、「冷気」を主にして言う。 秋冷の気を身にしみ とおるように感じることで、三秋にわたって用いてよいが、ことに晩秋に用い ることが多い。 <野ざらしを心に風のしむ身かな>松尾芭蕉、<身にしむや 宵暁の舟じめり>宝井其角。

 例句を挙げた中で、和子さんは<佇めば身にしむ水のひかりかな>久保田万 太郎、<身に入むや林の奥に日当たりて>岡本眸 のような句は「秋冷の気」を 感じるが、<さり気なく聞いて身にしむ話かな>富安風生、<身に入みぬモー パッサンの短編に>京極杞陽 になると、それがなくなっていると、指摘した。  本井英主宰は、季題として定着すると、こういう例はほかにもあるのだろう、 最近研究している人もいると、コメントした。

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