大竹しのぶ『ファミリー・ヒストリー』の強烈2017/10/18 06:39

 大竹しのぶさんの『ファミリー・ヒストリー』(2017.1.26.)で、強く印象に 残ったのは、祖母(母・江すてるさんの母)八重に関連して、幸徳秋水、小山 内薫、内村鑑三の名前が出たことだった。 八重は、麹町の家具屋に生れ、女 学校を出て女子英学塾(のちの津田塾大学)に進学した。 聖書講談会で内村 鑑三に師事して、小山内薫や山内権次郎らと知り合う。 小山内薫の自叙伝小 説『背教者』は、内村鑑三の元を離れることを描いているが、八重をモデルに した周囲を首ったけにする女性・絹子が登場する。 社会主義に目覚めた山内 権次郎と惹かれ合った八重は、幸徳秋水とも親しくなる。 幸徳秋水は、『万朝 報』の記者として日露戦争の非戦論を主張したが、開戦前に退社し堺利彦と平 民社を起こして、『平民新聞』(週刊)を創刊した。 明治38(1905)年筆禍 事件で投獄された後、平民社を解散し、アメリカに渡った。 平民社に勤めて いたらしい山内権次郎との子を身ごもっていた八重は、山内とともに幸徳と一 緒に渡米し、サンフランシスコで敏子を出産した。 敏子の名は、平民社サン フランシスコ支部の創設者、岡繁樹の妻の名をもらった。 彼らは社会主義の 活動をしていたが、日系人の増加による排斥運動が高まっていて、彼らの運動 は迷惑でしかなかった。 幸徳秋水は社会革命党を結成したが、当時の写真に 八重の姿がある。 八重を含む彼らの行動は、外務省のスパイによって監視さ れていたらしい。 渡米から2年後、夫の山内権次郎がチフスで亡くなり、八 重は敏子とともに帰国した。 夫の実家に身を寄せたが、敏子を置いて出てい くように言われる。 敏子は、そこで育ち横浜の実業家と結婚して、5人の子 を育てた。 八重は山内家を出た後、鈴木という人と二度目の結婚をし、男児 を生んだが、その夫と男児とも別れている。 大竹しのぶは「再開スペシャル」 で、その男児の子二人と会い、「えくぼ」が似ていると言い合った。

 二人の子供と生き別れた八重は、大正4(1915)年30歳の時、4歳年上の吉 川一水と結婚する。 大竹しのぶの祖父となる人である。 吉川一水は、19歳 の時、内村鑑三の聖書講談会で八重と出会っていた。 一水は教会に属さない 無教会派として清貧と非戦を訴えた宗教家だった。 翌年、長男が生まれ、仙 台に移ってキリスト教系女学校で教鞭を取る。 大正11(1922)年、しのぶの 母になる江すてるが生まれる。 その名は聖書エステル記の主人公、民衆のた めに尽す娘からとった。 仙台に来て6年後、一水は教師を辞め、布教活動に 専念することにして、東京に戻る。 小さな家を借り、聖書の講談会を始めた が、収入はほとんどなかった。 昭和15(1940)年、各教派に分かれていた 教会は統合され、戦争協力を余儀なくされた。 キリスト教信者への監視が厳 しくなり、反戦分子と冷たい目が向けられ、講談会を続ける一水のところには しばしば憲兵が来ていた。 その講談会を熱心に聴きに来ていた大竹章雄とい う青年がいた。 後に、しのぶの父になる人だ。

 大竹章雄の先祖は新潟県長岡の近くで、「大竹様」と呼ばれる庄屋で、江戸中 期の与茂七は繰り返される川の氾濫と戦い、地域が豊かな米どころになること に努めたが、近隣の村の庄屋達の嫉妬で濡れ衣を着せられ獄門となったので、 地域の人は今でも与茂七を慕い、お盆にはその霊を慰めている。 明治になっ て章雄の祖父・国司は、塩釜に移り医者になる。 章雄は明治44(1911)年生 れ、7歳の時に父を病で失い、母が質屋をして生計を立てた。 昭和12(1937) 年、章雄は25歳で遠縁の娘と結婚、男の子が生まれた。 章雄は日中戦争で 召集され、ソ連との国境地帯に配属された。 戦地から帰還した章雄は、キリ スト教の信仰に傾倒して、母や妻子との溝が深まり、塩釜を出て、川崎の会社 に勤めるようになった。 そこで吉川一水の聖書講談会に通うようになり、そ の娘の江すてると終戦の3年後、大井町で生活するようになる。 長女、長男、 次女が生まれた。 一水は終戦の翌年、昭和27(1952)年には八重が66歳で 亡くなった。 その5年後の昭和32(1957)年7月17日、三女・大竹しのぶ が誕生する。

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