「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」2017/10/19 07:13

 大竹しのぶの名前は、マタイによる福音書10章13節の「最後まで耐え忍ぶ 者は救われる」から、父・大竹章雄がつけた。 しのぶの妹が生まれ、章雄と 江すてるは、5人の子に恵まれたが、昭和38(1963)年章雄が結核に倒れる。  (ウィキペディアの「大竹しのぶ」には、父は旧制工業高校(現・東北大学工 学部出身)で東京電力に勤めていたとある。) 一家は空気のよい場所を求めて、 秩父山地の麓、埼玉県越生(おごせ)町に引っ越し、しのぶが小学校に入った。  体調が回復すると、章雄は高校の教師となり、数学と倫理を教えた。 番組で 当時の教え子たちは、優しくて一緒にいて落ち着く先生だった、卒業後も交流 があり、人生の教訓を添えた手紙をもらった、などと語っていた。 しかし昭 和42(1967)年、結核が悪化し、教師を辞めざるを得なくなる。 一家は埼 玉県毛呂山に移り、章雄は結核病棟に入院した。 一家の暮しは、すべて母・ 江すてるにかかることになり、パン屋で働きながら、家政婦や子守をして家計 を支えた。 しのぶは、給食費を集める学級委員をしていたが、自分はいつも 遅れていたと語っていた。 一家は、ある家の敷地にあった木造の物置に暮し ていた。 父の章雄は、入退院の合間に家に戻ってくると、夕食の後、デザー トの時間だと子供たちをよく外に連れ出し、川のせせらぎ、鳥やカジカの声を、 目を瞑って味わわせた。 少し回復して仕事を探すが、60近くなって見つけた のは溶接工場の仕事だった。 元教師に溶接などはできず、ペンキ塗りなどし たという。 一向に楽にならない暮しに、江すてるは東京へ出る決断をする。

 昭和46(1971)年、しのぶが中学2年の時、一家は東京小岩に越し、会社 の社宅に住み込み、母は昼は社員食堂の賄い、夜は経営者の家の家政婦をし、 父は倉庫番として働いた。 子育てが一段落し、長女と次女が結婚する。 昭 和50(1975)年、しのぶが18歳で浦山桐郎監督の映画『青春の門』のヒロイ ン役で本格的なデビューを果たす。 その頃、父章雄は胃がんに侵されている ことがわかり、しのぶの出演するドラマを見ることを楽しみにしつつ、亡くな った。 長女は亡くなった父が同僚に、釜石に残した子供たちへの伝言を頼ん でいたことを知る。 一家は、その子供たちと会うことになる。

 江すてるさんは94歳になる。 大竹しのぶさんが朝日新聞に連載している 「まあ、いいか」にも、たびたび登場する。 4人の姉妹は、苦労を重ね、頑 張って育ててくれた母の姿をずっと見てきた。 家族が集まると、江すてるさ んは決まって「私は日本一幸せなおばあさんです」と言うそうだ。

 写真を見ると、江すてるさんという方、一度見たら忘れられないお顔をして いる。 私が等々力に住んでいた頃、近くに大竹しのぶさんが服部晴治さんと 住んでいたので、江すてるさんをお見かけしたような憶えがあるのだが…。