なぜ小さなラトガースが留学の中枢となったか?2017/10/24 06:35

 そこで、ラトガース大学のファーナンダ・ペローン准教授(図書館長)の基 調講演「目に見えないネットワーク : 明治初年ラトガースにおける日本人留学 生」である。 高木不二さんの抄訳と、コメンテーター立教大学の阿部珠理教 授のコメントを参考にして、書いてみたい。 明治初年多くの日本人留学生が アメリカ、ニュージャージー州ニューブランズウイックにあるラトガース・カ レッジや、その準備校であるラトガース・グラマースクールで学んだ。 この ラトガースがハブ(hub)となって、当時のニューヨークやフィラデルフィア、 ボストン、ニューイングランドなどにみられる日本人留学生のネットワークを つないでいた。 なぜ、名門(アイビー・リーグ)でも大きくもない、この小 さな大学がハブとなったか。 そこには「目に見えないネットワーク」があっ たからだ。 それはラトガースやニューブランズウイック神学校をとりまくプ ロテスタントの教会ネットワークの一部であり、さらにはオランダ改革派教会 の日本を含む東洋における活動とつながっていた。

 ラトガース・カレッジは1771年に、クイーンズ・カレッジ(英国王ジョー ジ3世の妃シャルロッテにちなむ)として開学、当初はオランダ改革派教会の 聖職者養成が目的だった。 学生が集まらず、何度か閉鎖された後、1825年篤 志家ヘンリー・ラトガースの援助を得て、ラトガース・カレッジとして再出発 した。 南北戦争後(阿部珠理教授によるとモリル法で実学の大学に補助金が 出た)、ウイリアム・キャンベル学長のもとで、科学部門を併設、1860年代に 総合大学として発展した。 学生たちの活動も文化・スポーツなど多方面で活 発になった。 日本人留学生は、そのラトガースの隆盛期に居合わせた。

 幕末、多くの留学生がイギリスなど欧州へ渡ったが、アメリカへは南北戦争 (1861-65)の影響で、10人前後しか留学していない。 森有礼と新島襄を除 く学生達がラトガースに来たのは、オランダ改革派教会がラトガースと強い結 びつきを持っており、その教会が日本に派遣した宣教師がフルベッキだったか らである。 長崎でフルベッキに学んだ学生が留学を希望すると、ニューヨー クの改革派教会伝道局の責任者フェリスを紹介され、そのフェリスは彼らにラ トガースを勧めた。 フェリスはニューブランズウイック神学校の卒業生だっ た。 最初に来たのは横井小楠の甥の横井佐平太・大平兄弟、翌年には日下部 太郎(越前藩)、畠山義成、松村淳蔵、吉田清成(三人は薩摩藩)がやって来た。

 日本人留学生は、侍階級の出身で容儀が正しく、克己の精神を持ち、日本の 国家に貢献しようとする意欲に燃えて、熱心に勉強したから、アメリカの同級 生にも好印象を与え、成績もよかった。 江藤淳が初期留学生は「勉強死にし た」ほど猛烈に勉強したと書いている。 日下部太郎は、日本人で初めてファ イ・ベータ・カッパ・クラブ(全米優等学生友愛会)のメンバーとなったが、 1870(明治3)年、不幸にも卒業式の数週間前に結核で亡くなり、学位は死後 に与えられ、アマースト大学の新島襄とともに、アメリカの大学を卒業した最 初の日本人となった。 彼の英語とラテン語の家庭教師だったウイリアム・エ リオット・グリフィスは、彼の死を深く悼み、同年越前藩のお雇いとして来日、 一年後開成学校(東京大学)の教授となった。

 明治初年のラリタン河畔の小さなカレッジ(ラトガース)における宣教師・ 教育者・留学生の間のネットワークが、その後の日本の教育・政治・経済界の リーダーを生み出す基礎を形作ったと、ファーナンダ・ペローン准教授は指摘 した。