棄つるは取るの法なり〔昔、書いた福沢24〕2017/11/15 06:36

  等々力短信 第382号 1986(昭和61)年2月15日

             棄つるは取るの法なり

 私が「福沢いかれ派」になったのは、高校二年生の時、伊藤正雄さんの『福 沢諭吉入門』(毎日新聞社・昭和33年)という本に出会ったからだ。 「政党 の名は『め組』・『ろ組』にて苦しからず」、「桃太郎はわるものなり」、「立小便 を恥とせず、邏卒(巡査)を恐るるのみ」といった福沢諭吉の言葉にあふれる ユーモア、たとえの面白さ、その明快な議論の魅力に、とらえられた。 その 後、藤原銀次郎さんが、処世上の訓言を抜き出した『福沢先生の言葉』(実業之 日本社・昭和30年)からも「未得の銭を既得に数うべからず」「費(つい)え をいとうべし。飯炊きも亦飯を食う」、「智恵は小出しにすべし」、「棄つるは取 るの法なり」といったフレーズを、覚えた。 わからないなりに面白がってい たのだが、今でも、事あるごとに、口をついて出てくる。

 丸山真男さんの『「文明論之概略」を読む』(上)を読んでいて、教えられる ことは、福沢諭吉の智恵の深さである。 たとえば、「両眼を開け」という福沢 の言葉が出てくる。(79頁) これは「正直だけれども、頑愚な」田舎の百姓 と、「怜悧だけれども、軽薄な」都市の市民の、たとえ話で説明されている。 世 の中の物事は複雑で、ダメなところと、いいところが、背中合わせにくっつい ていて、はなれない。 この場合、正直はいいが、頑愚は困る、とか、頭のい いのは大したものだが、おっちょこちょいだからダメだ、という考え方をして はいけない。 都市の市民の頭のいいところと、田舎の百姓の正直なところを、 うまく組み合わせて、本来の目的達成のための集団のアウトプットを、最大に するような組み方をしなければいけない、と福沢は説く。 丸山さんは、こう 福沢の智恵を説明して、これを「すぐれて政治的に成熟した思考法」だという。

 なぜ、福沢諭吉は『文明論之概略』の第一章に、「議論の本位を定める事」を もってきたか。 丸山さんは、幕末維新のような切迫した時期の議論では、何 が今、一番大切な問題なのか、「重要性のスケール(階序)」、つまり「優先順位」 を設定しなければならないからだ、と言う。 何をテーマとし、何をテーマと していないか、問題の取り上げ方も、解決の仕方も、そこにはつねに捨象が伴 っている、と言う。

 ここで私は、「棄つるは取るの法なり」という、福沢の言葉を思い出した。 こ れは、山積する仕事の、イライラ解決法としても、日常の生活に応用できそう だ。