図書館学科、Japan Library Schoolの開設2017/11/20 07:24

 慶應義塾の図書館運営の特徴。 図書館監督の時代から、野村兼太郎館長ま では、蔵書の充実と保存に力点がおかれ、長期在任が特徴だった。 小泉、高 橋監督の時代、和漢書も整備。 高橋監督は社会奉仕に注目、図書館の一般公 開をし、思想統制で行き場を失った研究者を受け入れた。 昭和18年には学 徒出陣、小泉信三塾長が「開塾以来、前例なき難局」と語った、私学に対する 国の援護はなかった。 若い教職員は応召し、年輩の教職員で図書館をどう守 るかとなったが、高齢者の削減で昭和19年60歳定年制実施。 野村兼太郎館 長は、人材は宝だ、空襲には逃げろと言い、蔵書の疎開を手作業、馬車、牛車、 大八車で行った。 昭和20年5月の空襲で図書館被災、台風による雨漏りの 影響もあった。

 野村兼太郎館長で特に重要なのは、司書の能力開発構想。 つまりJLS= Japan Library School(図書館学科)開設(1951年)以前に“司書”養成体制 に着手していた。 1949(昭和24)年5月の「図書館規程」第5章で、慶應 義塾図書館(三田)に図書館学研究会を設け、司書養成の機関とした。

 ここで占領下のGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の話になる。 GHQ は、日本の教育制度を変えなければならぬとして、六三制の実施を図った。 学 力の低下に対して、最低限の情報を持たせるため、公共図書館の整備にCIE民 間情報教育局は23都市にCIEライブラリーを開いた。 さらにアメリカは日 本の図書館の再興に必要な図書館員養成のための図書館学校JLS=Japan Library Schoolの創設を計画した。 イリノイ大学図書館長兼図書館学校長ダ ウンズは1950(昭和25)年7月、東大、京大、同志社、早稲田、慶應義塾の 各大学を調査して帰国した。 そしてワシントン大学図書館学科長ロバート・ ギトラーがJLSの主任として来日、再調査の結果、慶應義塾にJLSが置かれ ることになった。 潮田塾長は教室を二つ提供すると申し出、慶應の施設は他 大学にくらべ劣位だったが、1951(昭和26)年1月10日に調査に訪れたギト ラーに、福沢先生誕生記念会で塾長らが会えず、対応した清岡暎一が渡した自 身英訳の『福翁自伝』が、その決定に最も役立ったという。 ギトラーは自伝 に、当日は積もっていた雪が朝日に光っていて、モルモン教徒がソルトレーク に来た時と同じ気持だったと、書いている。(実はその日は一日中、氷雨だっ たらしいが…。) 慶應義塾は、1951(昭和26)年に文学部に図書館学科を 増設し、外部に対しては「日本図書館学校」Japan Library Schoolと名乗った。  アメリカの資金援助により、アメリカから派遣された5名の講師による図書館 学の授業が始まった。