辰濃和男さんの「等々力短信」千号スピーチ2017/12/17 07:03

 辰濃和男さんが亡くなられたことを、13日の朝刊で知った。 6日に老衰の ため都内の病院で、87歳。 1953年に朝日新聞社入社、ニューヨーク支局長、 東京本社社会部次長、編集委員を経て論説委員となり、75年~88年に「天声 人語」を書いた、とある。

 辰濃和男さんとのご縁が、どのように始まったのか、忘れてしまったが、お そらく1975(昭和50)年12月に書き始められた「天声人語」を読んで、感想 か質問の手紙を出したからではなかったか。 私は同じ年の2月に「等々力短 信」の前身「広尾短信」をハガキ通信として始めていたから、ご縁が出来て以 来、ずっと辰濃和男さんにお読みいただくことになったのだった。

 やがて毎年、読書の秋になると、辰濃和男さんから、宅配便のダンボールで どっさり新刊書(朝日新聞社の出版物を中心に、広い分野の)を送っていただ くようになった。 後進のささやかな個人通信を応援して下さる、ずしりと重 いそのお気持をうけとめるたびに、身も心もひきしまる思いがした。 平成2 (1990)年に頂いた本の中に、島戸一臣さんの『新・青べか物語』(朝日新聞 社)があって、それを「等々力短信」551号、552号で紹介したことから、私 は島戸さんが社長をしておられた(株)アトソンのパソコン通信・ASAHIパソ コンネットに「等々力短信」を配信することになり、それが今日のブログ「小 人閑居日記」につながっているのである。

 辰濃さんとの一番の思い出は、2009年 7月4日の「『等々力短信』1,000号 を祝う会」で、読者代表のお一人としてスピーチをして下さったことだ。 7 月9日の<小人閑居日記>「夢心地のお祝いスピーチ」に、舞い上がった私は、 こう記録していた。

 最初は朝日新聞の「天声人語」を、足かけ14年四千回近くお書きになった 辰濃和男さん。 辰濃さんが「天声人語」を書き始めたのは1975(昭和50) 年12月からだから、同じ年に始まった「等々力短信」は「戦友」のようなも のだと、まず話された。 「等々力短信」の「力」について沢山書いてきたと 草稿を示し、5分といわれたのでと、四つにしぼった。 (1)落語の力…漱石 の文章にもある落語の影響が色濃い。 (2)福沢諭吉の力…福沢学の大家、 福沢の強い味方、脱亜論や複眼の思想などを説明。 (3)やじ馬的な力…世 の中の新しいコト、モノに鋭敏な感受性をもち、独自の見方で調べにゆく精神。 「等々力短信」で紹介された本を何冊も本屋へ買いに行った、たとえば『笑う カイチュウ』(696号・藤田紘一郎著)。 (4)まとめ力…自著『文章のみがき 方』をとりあげた短信(982号)は、書いた自分がまとめるよりよくまとまっ ていた、馬場さんにはいつか『文章のまとめ方』という本を書いてもらいたい、 と。

 あらためて「等々力短信」を振り返ってみると、辰濃和男さんの書かれたも のや、ご本を何冊かを読んで、いろいろと学ばせてもらっている。 それを順 次紹介させていただくことにする。