明治12年「慶應義塾新年発会之記」2018/01/13 07:24

 10日は第183回福澤先生誕生記念会、毎年、会の初めに幼稚舎生の歌う『福 澤諭吉ここに在り』は、上野の彰義隊の戦争の日に福沢が悠然とウェーランド 経済書の講義を続けていたエピソードを、佐藤春夫が作詞したものだ。 昨年 5月に就任した長谷山彰新塾長最初の年頭挨拶を聴く。 長谷山塾長は、その 日から12年、明治12(1879)年1月25日に慶應義塾で催された新年の発会 で、大喜びだったという福沢先生の演説から始めた。

 帰宅して、その「慶應義塾新年発会之記」を探す。 『福澤諭吉全集』の索 引から、17巻の278頁と282頁を見ると、1月29日の岡本貞烋(さだよし) 宛と、2月4日の藤野善蔵宛書簡で発会に触れていて、「内外の学生360名ばか り」が賑やかに参加したとわかる(この学生は、学問の仲間の意だろう)。 こ の書簡を『福澤諭吉書簡集』第2巻でみたら、岡本貞烋宛に同封した「拙文一 編」が『福澤諭吉全集』4巻の『福沢文集二編』にあることがわかった。 533 頁に「明治12年1月25日慶應義塾新年発会之記」はあって、ようやく読むこ とが出来た。

 「温故知新、人間の快楽、何ものか之に若かん。」と始まり、22年前の安政 5(1858)年10月江戸鉄砲洲の中津藩邸内で数名の学生を教えて創立、同年は アメリカを始め5か国と条約を結び、英書を読む必要を悟って英書を講じ、攘 夷の議論が沸騰する中でも、次第に塾生は増加、百余名になっていた。 そこ に王制維新の騒乱、塾生も分散して数十名を残すのみとなったが、(長谷山塾長 は「中津藩から独立して」と)慶應3(1867)年12月から芝新銭座に新校舎 を建設、竣工の明治元(1868)年4月は東征の官軍が箱根を越え、上野には彰 義隊が屯(たむろ)して、「東京城市、風雨腥(なまぐさ)きの時なり」。 「蓋 (けだ)し此新築の塾を慶應義塾と名けたるは、当時未だ明治改元の布令なき を以てなり。」

 維新後、入社生も増え、新銭座も手狭になったので、明治4(1871)年、三 田に移転、常に300余名の学生を教えて今年まで全8年を経た。 「即ち今日 の会は開塾以来第22年、慶應義塾改名より第12新年の発会なり。新に逢ふて 旧を想ふ。人間の快楽これに過ぐるものある可らず。諭吉も亦幸に健康無事に して、諸君と共に此快楽を與(とも)にする其中心の喜悦は、口に云ふ可らず、 筆に記す可らず。唯衆客の忖度(そんたく)を待つのみ。」 忖度が出てきた(笑)。

 「末文に尚一言することあり。抑(そもそ)も我慶應義塾の今日に至りし由 縁は、時運の然らしむるものとは雖(いえ)ども之を要するに社中の協力と云 はざるを得ず。其協力とは何ぞや。相助ることなり。創立以来の沿革を見るに、 社中恰(あたか)も骨肉の兄弟の如くにして、互に義塾の名を保護し、或は労 力を以て助るあり、或は金を以て助るあり、或は時間を以て助け、或は注意を 以て助け、命令する者なくして全体の挙動を一にし、奨励する者なくして衆員 の喜憂を共にし、一種特別の気風あればこそ今日まで維持したることなれ。今 や前後入社生の散じて日本国中に在る者四千名に近し。其中には往々社会上流 の地位に居て事を執る人物も亦少なしとせず。実に我社中の如きは天下到る處 同窓の兄弟あらざるの地なしと云ふも可ならん。人間無上の幸福と云ふ可し。 吾輩既に此幸を得たり。豈(あに)偶然ならんや。されば今後とても此兄弟な るもの、益相親み益相助けて、互に其善を成し、互に其悪を警しめ、世に阿る ことなく、世を恐るゝことなく、独立して孤立せず、以て大に為すあらんこと、 諸君と共に願ふ所なり。既往を悦ぶの余り兼て又将来の企望を記し、以て本日 の演説を終ふ。」

 長谷山塾長は、現在の塾員35万人、福沢の理想は達成された、と語った。