長谷山彰塾長の「年頭挨拶」2018/01/14 08:09

 長谷山彰新塾長、落ち着いていて、ゆったりと語る人だった。 「新年発会」 の明治12(1879)年は、西南戦争後で秩禄処分による士族の窮乏化も進んで 塾生の数が減少し、慶應義塾の経営が閉鎖の危機に瀕していた時期でもあった。  福沢は、政府から維持資金四十万円を借用することを考え、働きかけを行った が、井上馨と伊藤博文が強く反対して実現しなかった。 井上馨宛の手紙(明 治12年2月10日)に、三菱会社商船学校に毎年一万五千円を補助しているの は、国に商船の航海者を作るの趣意だろう、岩崎弥太郎は船士を作り、福沢諭 吉は学士を作る、海の船士と陸の学士と固(もと)より軽重あるべからず、と 書いている。

 資金調達計画に失敗した福沢は廃塾の決意を固めたが、小幡篤次郎を始めと する社中の人々は、自分たちの手で寄附金を集め、義塾の存続を図る計画をま とめた。 明治13(1880)年の慶應義塾維持法案で資金を公募し、その資金 によって維持・運営されることになったため、義塾の経営主体と責任を明確に するため、明治14(1881)年慶應義塾仮憲法により、慶應義塾の運営は福沢 の手を離れ、維持社中の選挙で選ばれる理事委員に移った。 長谷山塾長は、 これを「会社組織」になったと語り、その社中一致の根本理念は、先に見た福 沢の「明治12年1月25日慶應義塾新年発会之記」に現れているとした。

 塾長は理事長を兼ねていて、資金獲得が使命である。 自己資本の比率を高 めて、研究の自由を確保したい、福沢基金や小泉基金を充実させたい。 日吉 記念館は2020年春に建替完了、オリンピックのイギリス選手団が使用する予 定、2020年までに博物館を創設するために設立準備室を立ち上げた。

 ほかに長谷山塾長の「年頭挨拶」で書いておくべきだと思ったのは、つぎの ような点である。 今年は明治150年、慶應義塾命名150年、福沢は官と民の うち、民の強化による近代化を目指した。 幕末の戦乱の中でも、学問で社会 に貢献しようとした。 明治初年の学校は、医学、法学、工学など、みな専門 の学校だけだった。 その中で、慶應義塾だけはリベラルアーツ教育、全人格 的教育を行なっていた。 ウェーランドの経済書と同時に、ウェーランドのモ ラルサイエンス『修身論』も講じていた(コモン エデュケーション)。 「慶 應義塾規約」の第2条には、「慶應義塾は教育を目的とする」(研究はなく)と のみ書かれている。 実業界から、音楽やスポーツに至るまで、広く人材を送 り出す、人材育成の使命は、慶應義塾の誇りである。

 昨年は、体育会創立125年の記念式典を開催した、体育会は43部、文武両 道の「考えるアスリート」を目指している。 体育会ばかりでなく、文科系で も、正課と課外のバランスが大切だ。

 オックスフォード大学のルイーズ・リチャードソン学長(初めての女性学長 らしい)にお会いして、慶應義塾の第19代塾長だと言ったら、自分は221代 目の学長だと言われた、あちらは千年に近い歴史がある。