多様な著者名を揃え「時勢」を動かす福沢の演出2018/01/23 07:03

 次に都倉武之さんは「二 福沢著作の執筆名義」で、単行本を検討する。 福 沢関連の著作中には、福沢による純然たる著作とはいえなくとも他の著名人の 全集であれば収録されていても不自然では無い程度に福沢が関与しているのや、 逆に全く福沢とは無関係の体裁でありながら、福沢の証言に基づき全集に収録 されているものなど、微妙な位置づけのものがいくつか存在している。

 『万国政表』(万延元年)福沢範子囲閲 岡本約博卿(岡本節蔵(古川正雄)) 訳、『西洋衣食住』(慶應3年)片山淳之助名義、『洋兵明鑑』(明治2年)福沢 諭吉・小幡篤次郎・小幡仁三郎合訳、『清英交際始末』(明治2年)福沢諭吉閲 松田晋斎訳、『学問のすゝめ』初編(明治5年)福沢諭吉 小幡篤次郎同著、『国 会論』(明治12年)藤田茂吉・箕浦勝人名義で『郵便報知新聞』に連載。

 『万国政表』、『洋兵明鑑』、『学問のすゝめ』初編、『国会論』は、いずれも福 沢の筆が入っていると考えることに無理がなく、このうち『学問のすゝめ』初 編は100パーセント福沢執筆の可能性が高い。 『万国政表』、『洋兵明鑑』、『国 会論』の三点は、100パーセントの福沢著作ではないことが明らかなものとい えよう。

 福沢自身による全集収録状況は、『洋兵明鑑』、『学問のすゝめ』初編の二点は 採録、『万国政表』、『国会論』は不採録となっている。 『万国政表』、『国会論』 は、出版前に福沢が閲する機会があったとしても、実質は他者の手によって最 終的に仕上げがなされているものである。 任せた時点で、その後最終的に完 成したものを福沢は自分の著作とする気がなかったと考えられる。

 『西洋衣食住』、『清英交際始末』の二点は、名義を完全に福沢のものと改め て全集に採録している。 100パーセントの純然たる福沢著作で、ただ名義だ け片山、松田にしていたと考えるのが自然だろう。 このようなことをした理 由は何だろうか。 福沢の著作活動が門下生や教員と一体をなし、単に福沢一 人が突出して活動するのではなく、慶應義塾の人々が足並みをそろえて幅広く 発信していくことが心がけられ、そのように福沢が演出していたと見ることが できないだろうか。 『国会論』は、福沢がイギリス型の議院内閣制導入をし たことで知られる『民情一新』(明治12年)を引用しながら、その主張を支持 し、特に官界に向けて福沢の説く議院内閣制の長所を補強している。 つまり 福沢が一人で主張しているわけではなく、それを支持する声が福沢以外から挙 がっているという世間向けのアピールとなっているのである。 そのアピール は成功し、福沢が「図らずも天下の大騒ぎになって、サア留めどころがない、 恰も秋の枯野に自分が火を付けて自分で当惑するやうなものだと、少し怖くな りました」というほど、国会開設論を刺激することになった。 『文明論之概 略』の「時勢」論を想起すれば、やはり自らが突出するのを嫌い、「時勢」を動 かすことによって文明が進歩すると説いたことと連動しているといえよう。

 そして維新前後に西洋の文物への関心を喚起し、あるいは世界情勢に目を開 かせ、新しい学問へと人々を誘う仕掛けとして用意されたのが、『西洋衣食住』、 『清英交際始末』の二冊の本だったのではないか。 福沢だけでなくその周囲 も含めて多様な発信を行っていることを演出するために福沢は出来るだけ多様 な著者名がそろうことが得策と考え、これら二書は、全文自分で執筆しておき ながら、名義だけ関係者の中から割り当てたのではないだろうか。

 福沢は『自選全集』編纂の過程で、出版当時の事情から自由になったことで、 執筆の実態と当時の形式的名義の峻別を行なったということであろう。 『万 国政表』『国会論』ともに福沢の筆が基本になっているとはいえ、「これで完成」 という判断を自ら下しているか否か、という点が、自らの著作か否かの判断基 準といえるのではないか。

 そのように、都倉武之さんは推論するのだ。

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