福沢と『時事新報』の関係、著書と新聞の効果2018/01/24 06:41

そして、「三 『時事新報』社説に関する自意識」である。 ここでは具体的 に事例を検討することは困難なので、『時事新報』での執筆に当たっての福沢の 基本姿勢についてのみ検討する。 福沢は創刊直前に荘田平五郎に送った書簡 (明治15年1月24日)で、慶應義塾で幾多の卒業生を輩出し、それぞれが様々 な主張を展開することを放任してきた福沢であったが、そういった卒業生の中 の政治活動の動きを契機にして明治14年の政変が起こったことが推定される 状況下で、慶應義塾が「何か今之社会に対して求る所ある者之如くに思はるゝ は、俗に所謂割に合はぬ始末」と考え、そうであれば、慶應義塾の態度を時事 に照らしてその都度表明していくことが必要であるとし、その場として『時事 新報』を位置づけている。 福沢には新聞発行の前例があった。 明治7年2 月から翌年6月まで12回、様々な論説を掲載した『民間雑誌』を発行、明治9 年9月から『家庭叢談』という雑誌を刊行、明治10年4月になるとその体裁 を新聞に改め再び表題を『民間雑誌』とし、発行頻度を徐々に増やして、最後 は明治11年3月から日刊新聞となった(編輯兼印刷人 箕浦勝人、後に加藤政 之助)。 内容は新聞らしく官報欄や雑報欄、広告もあり、論説や社説には記名 があったり筆名があったり無記名であったり一定せず、福沢の記名は時々見ら れる程度である。 日刊になる際の『民間雑誌』の広告によれば、地方の購読 者を多く求めたようで、日本中への知識の普及、議論の活発化を狙ったものと いえ、そこにはやはり「時勢」論を念頭に置く必要があろう。

『民間雑誌』では、その後の『時事新報』ほどの福沢の関与の形跡は見られ ず、最初の日刊新聞の試みは、わずか2ヶ月余りで廃絶を迎える。 「壮年輩 に打任せて顧みさればこそ、彼の不始末を来たし候」(荘田平五郎宛書簡)。 明 治11年5月14日、大久保利通暗殺を受けて掲載した社説に「大久保氏に限り 特別に気の毒と云ふ訳もなきことなるが」云々と記したことを当局に咎められ、 以後このような不穏な記事は書かないという「請書」を出すように求められ、 福沢は加藤政之助に「そんな請書を出すものがあるか、かゝる無茶無法な政府 の下では新聞紙などは書けないから、いっそ思い切ってやめてしまはう。請書 の代りに廃刊届けを出して来い」といって、廃刊してしまったとされている。

しかし、『福沢諭吉伝』の永井好信による回想では、福沢は進歩的な大久保が 暗殺されたのは実に惜しむべきことだとし、暗殺のような野蛮な陋習に同情を 寄せるが如きは怪しからぬと、何故か喜ぶ塾生らを誡める演説をしたという。  「彼の不始末」とは、大久保暗殺に対する政府との無用な摩擦を生んだような 自分の失態、という意味ではないか、と都倉さんは指摘している。 その原因 は「壮年輩に打任せて顧み」なかったことなのである。

唯一の関連書簡、大久保一翁宛(明治11年6月1日付)にも「既往の失策 は幾重にも御海容奉願上候」とある。 その後の福沢の『時事新報』との関係 は自ずと示唆される。 つまり、紙上の発言は、福沢の、あるいは慶應義塾の 主張と見られることを前提として、これからは監督していく、ということを述 べているわけである。

福沢が新聞という媒体をどのように意識していたか、「著書、新聞紙及ビ政府 ノ効力」(明治17年5月31日付)という興味深い社説がある。 言葉を使い 分けて、主体的に「輿論」を作り出すという視点を有する福沢にとって、著書 と新聞は、効果的に使い分けるべきものと認識されている。 新聞は即効性が あり、瞬時に輿論を大きく動かすが、翌日にはすぐに忘れ去られてしまう。 ま さに「時事に切」であり、その時の情勢の中で、すぐに求める効果を導く道具 でしかないのである。 対する著書は、即効性はない代わりに、長い年月をか けて徐々に人々に浸透していくものである。 従って将来にわたって読まれる 価値のあるものを著書として世に問うべきである、ということである。

『自選全集』では、『時事大勢論』(明治15年)から『実業論』(明治26年) に至る、『時事新報』創刊後の15冊の著作は全ていったん『時事新報』に掲載 後、単行本となった。 このようにいわば「著書」の役割を持つ論説は、社説 としていったん家庭に届けた上で、改めてじっくりと読み続けられる本の体裁 にして歴史に残し、それ以外の社説は「近世文明の淵源を知るに於て」は「利 益」がなく、「歴史上の必要」がない(『福沢全集緒言』)、すなわち福沢にとっ ては、その時限りで役割を終えた使い捨ての言説であり、極言すれば後世に読 まれる必要がない無価値な社説ということなのである。 従って、そのような 意図の元で福沢が記したものとして読み解く必要がある。 上記15冊の著作 は、いずれも「福沢諭吉立案」として他者が「筆記」をした形式になっており、 これは前にみた通り法律上の責任が福沢に及ばぬにしただけのことである。  そしてその名義は、『自選全集』ではすべて「福沢諭吉著」と変更されている。

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