残念『広辞苑』第七版の【福沢諭吉】2018/02/14 07:22

 「『等々力短信』1000号を祝う会」の記念品として「電子辞書」を頂戴した ことは、「等々力短信」第1005号(2009年11月25日)「おかげさまの電子辞 書」に書いた。

http://kbaba.asablo.jp/blog/2009/11/25/4720064

 ずっと便利に使ってきたのだけれど、『広辞苑』第七版が入った最新機種が出 たというので、さっそく入手した。 それで複数の辞書を対象に、「奴雁」を引 いてみた。 「奴雁」は、『広辞苑』にはない。 国語辞典では『明鏡』『新明 解』も収録されているが、それにもない。 唯一あるのは、『デジタル大辞泉』 だ。 どがん【奴雁】⇒がんど【雁奴】「夜、砂州で休んでいる雁の群れの周囲 で人や獣の接近を見張っている雁。転じて、見張り役。奴雁。/◆「奴雁」と したのは福沢諭吉という説があるが、真偽不詳。」 福沢諭吉にまで言及してい た。

 私が『広辞苑』第七版で、まず見たかったのは【福沢諭吉】であった。 第 六版について、「等々力短信」第988号(2008年6月25日)「『広辞苑』の【福 沢諭吉】」を書いていたからだった。

     等々力短信 第988号 2008(平成20)年6月25日

             『広辞苑』の【福沢諭吉】

 15日、紫陽花真っ盛りの鎌倉極楽寺の成就院で開かれた、小尾恵一郎ゼミ OB会「紫陽花ゼミ」で、光栄にも「福沢諭吉」について話をさせてもらった。  柱の一つに、『広辞苑』【福沢諭吉】に苦情を言う、を選んだ。 『広辞苑』第 六版には、こうある。

 『ふくざわ‐ゆきち【福沢諭吉】思想家・教育家。豊前中津藩士の子。緒方 洪庵に蘭学を学び、江戸に洋学塾を開く。幕府に用いられ、その使節に随行し て三回欧米に渡る。維新後は、政府に仕えず民間で活動。一八六八年(慶応四) 塾を慶応義塾と改名。明六社にも参加。八二年(明治一五)「時事新報」を創刊。 独立自尊と実学を鼓吹。のち脱亜入欧・官民調和を唱える。著「西洋事情」「世 界国尽」「学問のすゝめ」「文明論之概略」「脱亜論」「福翁自伝」など。(一八三 四/一九〇一)』 手元の第四版もほぼ同じで、「豊前中津藩の大坂蔵屋敷で生 まれ」、「江戸に蘭学塾を開き、また英学を研修」とあり、「(幕府)に用いられ」 の句がないのが、違うだけだ。

 苦情の第一は、福沢の生年の西暦、「一八三四」。 福沢が生れたのは天保5 年12月12日だが、西暦では1835年1月10日に当る。 天保5年の大部分 は1834年にはなるけれど…。 そして『福翁自伝』などの福沢の年譜は、数 え年で書かれているため、天保5年暮の生れは、満年齢より二歳多くなる嫌い がある。 塾創立は実に満23歳。

 第二は、「独立自尊を鼓吹。のち…」。 福沢は晩年の大患後、近代化に伴う 国民の道徳水準を心配して、高弟達に「修身要領」29条を編纂させた(明治 33(1900)年2月24日発表)。 その中心にすえられたのが「独立自尊」だっ た。 福沢は、この四字熟語を明治23年8月の『時事新報』社説や明治30年 6月の演説で使ってはいるが、その根本思想を表すものとして一般化したのは、 あくまでも明治33年以降なのだ。

 第三は、「脱亜論」と「脱亜入欧」。 著書の中に「脱亜論」があるが、「脱亜 論」は明治18(1885)年3月16日の『時事新報』社説の題目で、本ではない。  「『脱亜入欧』を唱えた」とあるが、丸山真男さんによれば(『三田評論』昭和 59年11月号の座談会「近代日本と福沢諭吉」)、福沢は「脱亜」という言葉は、 この社説の題目に一度使っただけだし、「入欧」という言葉は使っていない。 戦 後、この「脱亜論」と「脱亜入欧」のレッテルを貼って、福沢はアジアを蔑視 し、大陸侵略的だったと批判する人々が現れた。 一人歩きしたそのレッテル に『広辞苑』は引きずられている。  (馬場紘二)

 この「等々力短信」第988号は岩波書店にも送った。 そこで『広辞苑』第 七版だが、電子辞書購入前に図書館で見てきた。 ふくざわ‐ゆきち【福沢諭 吉】の記述は、第六版とまったく変わっていなかった。 まことに残念である。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
「等々力」を漢字一字で書いて下さい?

コメント:

トラックバック