葉室麟さんの『蒼天見ゆ』を読み始める2018/02/17 07:20

 葉室麟さんは昨年、『潮騒はるか』『大獄 西郷青嵐賦』『天翔ける』と幕末の 動乱を背景とした大作を立てつづけに刊行した。 12月23日に急逝して、訃 報と松平春嶽を描いた『天翔ける』の広告とが、同時に新聞に出た。 直木賞 受賞作『蜩ノ記』しか読んでいなかったので、何か読んでみようと思った。 図 書館で『蒼天見ゆ』(角川書店)を手に取ると、「嘉永六年(一八五三)十月― ―/九州、筑前の秋月藩士臼井亘理は近頃、不思議な夢を見る。」で始まってい た。 嘉永6年といえば、ペリーの黒船が浦賀に来航した年で、幕末激動の時 代が始まる。 近くの豊前中津では、18歳の福沢諭吉が狭い藩内の「私のため に門閥制度は親の敵(かたき)でござる」という窮屈で不愉快な生活が堪え難 く、翌年2月には長崎へ蘭学修業に飛び出そうとしていた。 薩摩の鹿児島で は、島津斉彬が藩主になって2年目、西郷隆盛は26歳だった。 時代も、場 所も、福沢と重なるものがあるのではと、読み始める。

 秋月藩は、福岡藩黒田家五十二万石の支藩で五万石。 26歳(西郷隆盛と同 い年)の臼井亘理は、父が三百石取りの馬廻役の上士、文武にすぐれた俊秀だ った。 文久2(1862)年、35歳で「用役」に登用され藩政に参画、陽明学の 師である開明派の中島衡平と時局についての意見を交わし、長崎から西洋砲術 家を招いて、鉄砲隊を西洋式に改革しようとしていた。 藩内の尊攘派が家老 の吉田悟助のもとに集まり、それに反発する。 慶應4(1868)年2月、亘理 は執政心得首座公用人兼軍事総裁として京に上り、鳥羽伏見の戦い後の情勢を 探るため、薩摩長州の要人との面会を画策する。 ようやく会えた大久保一蔵 (利通)は、秋月藩の上洛の遅れをなじるが、亘理は秋月藩の尊王の志を伝え、 公家の三条実美らをも訪ねて秋月藩への信頼を取り付けてまわる。 亘理は秋 月に藩主黒田長徳の上京を要請するが、国許では、これまで西洋式兵術の導入 に努め開国・佐幕側であると見られていた亘理が、時勢の激動により薩長方に 変節した、とされてしまう。 尊王攘夷を唱える者たちが、干城隊を結成した。  亘理の長男六郎は10歳、長女のつゆは4歳になっていた。 秋月藩主黒田長 徳がようやく上京したのは、江戸城無血開城後のことだった。 亘理は大坂藩 邸に呼ばれ、帰国命令を受ける。 薩摩藩に帰国引き留めの動きがあり、それ を藩主長徳が怒ったなどと知れ渡っていた。

 切腹すら覚悟をして秋月の屋敷に帰った亘理は、妻の清に六郎とつゆを呼ば せ、「そなたたちに授けたい言葉がある」と、達筆で認めた料紙を示した。 「雨 過天青雲破処」 うかてんせいくもやぶるところ。 それは六郎が既に母から、 自分が何をなしていけばよいか迷ったときの心構えとして、父が六郎に教えた いと言っていた言葉だと聞いていた。 「苦しいときには青空を見よ。 誰が 正義であるか、あるいは悪なのか、ひとにはわからぬ。しかし、自分自身には わかっているものなのだ。 雨が過ぎ、雲が破れたところから覗く澄み切った 青空のようにな。」

 この日の夕刻、亘理の帰国を聞いた親戚や親しい者たちが訪れ、酒宴となっ た。 夜がふけてお開きとなり、亘理もしたたかに酒を飲んでおり寝所に入っ て熟睡した。 清もつゆを抱いて寝所で横になった。 雨が降り続く七ッ(午 前4時)、門前に両刀をたばさんだ二十数人が立った。 土足のまま奥座敷に 向かうと、ひとりが熟睡している亘理に斬りかかった。 肩先に斬りつけられ た亘理がうめいて上半身を起こすと、男たちは「天誅!」と叫びながら続けざ まに斬りつけた。 清が悲鳴をあげ、亘理に斬りつけていた男にしがみついた。  男は、「邪魔するな」と清を蹴倒した。 それでも清が亘理を助けようと手を伸 ばすと、そばの男が物も言わずに清に斬りつけた。 清の傍らにいた幼いつゆ にまで男たちは刃(やいば)を振るい、つゆは傷を負って泣き出した。 男た ちはなおも倒れた亘理に刀を振るって、首を落した。 同じ時刻に、中島衡平 も屋敷を襲われて、斬られた。 幕府が大政を奉還し、時勢の成り行きが定ま った今になって、なぜ亘理が殺されなければならなかったのか。

 騒ぎで奥座敷に行った六郎は、父と母の遺骸に目を遣った。 祖父の儀左衛 門は六郎の肩を抱き「無念じゃ」と、絞り出すような声で言った。 六郎は「違 う、違う」と叫びながら、外に飛び出た。 雨はあがっていた。 六郎は震え ながら、空を見上げた。 青い空ではなかった。 朝焼けで赤い雲が棚引く空 だった。 赤い空はあたかも死んだばかりの父と母の血に染まったかのように 六郎には思えた。

 『蒼天見ゆ』、三分の一まで読んだところで、主人公でこれから活躍するのか と思っていた臼井亘理が死んでしまった。