犬養毅、勝海舟、大隈重信も登場2018/02/19 07:26

 臼井六郎は、東京に戻り、一瀬克久の動向を知るには新聞記者になるのがい いかと、銀座に集まる新聞社の看板を見ていて、犬養毅に声をかけられる。 岡 山の士族で、慶應義塾の学生だが、郵便報知新聞の記者でもある、もっとも両 方とも辞めることになるだろうが…、六郎が何かを背負っていると見えて、一 緒に牛鍋屋で飯を食おうと言う。 犬養毅は、六郎が親の仇討ちのために記者 になろうかと思ったと話すと、従軍記者で行った西南戦争の田原坂で「戊辰の 敵」を狙った会津出身の者たちが大勢警視庁抜刀隊の中にいた、仇討ちとは古 い、これからは刀や鉄砲によらず、言論ですべてを決すべき時代になるのだ、 と言う。 六郎は、時勢にのって栄華を得ようとする者の頂門の一針たらんと 思っている、と答えて別れる。

 所持金がなくなり、窮迫した六郎が、つい鉄舟の屋敷に寄ると、英子夫人が お文が訪ねてきて、六郎を助けたいと話した、お文のいる仲見世の小料理屋へ 行けという。 二人は浅草で暮らすようになり、六郎は近くの子供に手習いを 教える。 明治13年になった。 一瀬克久が時折、京橋区十三間堀の旧藩主 の屋敷を訪れることがわかった。 家扶の鵜沼不見人は、六郎の縁戚だった。  お文が小料理屋に来た裁判所の雇員から、一瀬の屋敷が本芝三丁目にあること を聞き出した。 その夜、二人の男が浅草の家を襲い、お文があやうく殺され そうになる。 六郎たちは、京橋区五郎兵衛町に移り住む。

 叔父が秋月の祖父に仇討ちを止めさせるよう手紙を書き、病気の祖父に代わ って16歳になった妹のつゆが説得のため上京する。 六郎は「たとえ武士と いう身分は無くなっても、武家に生まれた者は武士の心を持って生きなければ ならないと、わたしは思っている」と言う。 つゆはお文と話し込んで、仲良 くなる。 六郎は鵜沼に頼み、つゆを旧藩主の屋敷の住み込みの女中にしても らう。 みちと、名を変えて。

 ある日、六郎は裁判所を見張っていて、一瀬が乗った人力車の後をつけ、銀 座の西洋料理店に入るのを見届ける。 2時間ほどして、人力車に乗ろうとし た男に、短刀をつかんで、声をかけると、人違いだった。 「狼藉者―」雷鳴 のような大喝が響き、六郎は地面に叩き付けられた。 「間違えたですむか。 この方は勝海舟先生だぞ」と、底響きする声の主は山岡鉄舟だった。 翌日、 六郎は鉄舟に伴われて、氷川町の勝海舟の屋敷に詫びに行く。 勝は父・臼井 亘理の名とかなりの出来物だったのを、大久保から聞いていた。

 一瀬克久は、身近に臼井六郎が出没したので、面倒をみたことのある元武士 の人力車宿の親方に、敵と狙う男を痛めつけて、巡査に渡してくれと頼む。 裁 判にかかれば、自分が監獄に叩き込む、と。 三人の元武士の車夫が、仕込み 杖で六郎を襲い、争っている間に、巡査が駆け付けて来た。 気脈を通じてい ると見た六郎が、ちょうど通りかかった馬車の前に身を投げ出すと、それは勝 海舟の馬車だった。 「お前とはよほど縁があるようだな。早く馬車に乗りな。」

 翌日の夕刻、旧藩主の屋敷に一瀬克久が来て、つゆはそれを知らせに兄の家 へ向かう。 その後を一台の人力車がつけていた。 六郎は鉄舟と、勝の屋敷 にお礼に行って留守、車夫たちがお文とつゆを家の中に押し込めて待つ。 六 郎の姿が見えると、お文とつゆが「逃げて」と叫ぶ。 車夫の一人にしがみつ いたお文が仕込み杖で斬られた。 六郎は短刀を構えて、ふたりの車夫に向か うが、「ここはまかせなさい」と鉄舟が手刀でふたりの首を打ち据えた。 お文 は「何があってもわたしは六郎様を待ってます。だから本懐を遂げてください まし」と言い終えて、がくりと首をたれた。 鉄舟は「武士のなすべきことに、 旧幕もご一新もない。ただ、おのれの信じるところに向かって命を捨てて向か え」

 旧藩のころであれば、父が討たれれば子が仇討ちを図るのは当たり前だった はずだ。 しかし、明治の御代になってからは、誰もそうは思っていない。 六 郎は思う(ひとは損得だけで生きるわけではない)

 一瀬克久は、築地西本願寺脇の大隈重信の屋敷、「築地梁山泊」へ、面識を得 に行った。 大隈は何もかも知っていた、「臼井亘理の一子はそなたを敵として 付け狙い、山岡鉄舟に師事し、勝海舟の庇護を受けておるそうじゃ。いずれも 旧幕以来の時代後れの者たちで、新しい世の役には立たん」「何でもよいから、 献策をわしのもとに持ってこい。そなたが物の役に立つようなら、わしが用い てやる。ただし、役に立たぬと見たら、面倒は見ぬ。臼井亘理の一子に討たれ ようが知ったことではない」(まだ、つづく)