「女たちの江戸城無血開城」2018/02/25 07:25

 『英雄たちの選択』・選で、「女たちの江戸城無血開城 篤姫と和宮、大奥の 闘い」も見た(2016年4月7日放送を、今年1月11日に放送)。 天璋院篤 姫と和宮、そのとき城の中には女二人しかいなかった。 二人は、時代の始末 をつけた、武士の世界を終わらせた。

 文久元(1861)年10月、公武合体のため孝明天皇は幕府に攘夷実行を約束 させ、15歳の和宮が14代将軍徳川家茂に降嫁する。 中山道を3万人50キ ロに及ぶ行列で江戸へ、通過に4日かかったという。 <惜しましな君と民と のためならは身は武蔵野の露と消ゆとも>(静寛院宮御詠集) 島津斉彬の養 女となり(近衛家の養女を経て)13代将軍家定の正室となった武家出身の姑・ 天璋院篤姫との間で、「御風違(ごふうちがい)」があった。 家茂は、おおら かな人で、甘い物好き、夫婦仲はよかった。 家茂は慶応2(1866)年、第二 次長州征討のため進発、大坂城に入ったが、7月幕府軍の敗報のなかで病死し た。 慶喜が大政奉還し、西郷らが新政府を樹立、鳥羽伏見の戦いに破れて、 慶喜は江戸に逃げ帰る。

 徳川家は、朝敵となってしまった。 和宮と天璋院篤姫には、三つの選択の 道があった。 (1)京へ帰る。 (2)武家の家を残し、一戦交える。軍艦開 陽丸やフランス式軍隊があった。 (3)二人が江戸城に留まり、和平を目指す。

 江戸城総攻撃は慶応4(1868)年3月15日と決定された。 3月11日、二 人は江戸城に留まる。 和宮は、幼馴染の岩倉具視に手紙を書く。 近年、発 見された、進軍を止めて欲しいという哀訴状だ。 天璋院篤姫は、西郷隆盛隊 長に長さ3メートル、1300字の嘆願書を送る。 一命をかけての願い、慶喜の 天罰はやむを得ないが、大切な家柄なので、徳川家だけは安堵してほしい。 斉 彬公の武人としての徳と、人間としての「仁」の心をもって、この困難を御救 い下さいましたなら、島津家ご先祖、父斉彬への孝行の道が立ちます。 西郷 は涕泣し、総攻撃を中止した。

 天璋院は、家臣たちに、静謐を守れという通達を出す。 慶応4年4月4日、 江戸城明け渡し、大奥はきれいに整えられていた。 16代当主、亀之助が家達 (いえさと)として家を継ぐことを認められる。 天璋院は、千駄ヶ谷に家(洋 館)を建て、その養育に当たり、明治16年没、46歳。 増上寺の夫・13代将 軍家定の墓に並んで葬られた。 和宮は、明治10年没、32歳。

 天璋院篤姫と和宮、その時、30歳前後と20歳前後、二人がいなかったら江 戸は火の海になっていた。 二人の女性は、近代国家の扉を開いた「明治の女 神」だった。

<時ものを解決するや春を待つ 虚子><等々力短信 第1104号 2018.2.25.>2018/02/25 07:26

 本井英主宰の俳句雑誌『夏潮』は昨夏、2007年8月の創刊から十周年を迎え、 8月26日、来賓、会員、同伴家族など180名余が参加して東京湾記念クルー ズで祝ったのであった。 人生、何が起こるか、わからない。 『夏潮』1月 号巻末の「消息」で、本井英主宰は、「ところで一つご報告があります。実は小 生このたび「咽頭癌」との診断を受け、暫く入院加療の必要が生じてしまいま した。幸い現在のところ転移は見られず、化学療法・放射線療法などにより根 治を目指しております」と告知された。

 私は12月14日の渋谷句会に主宰が欠席され、後選(あとせん)になるとい うことで、事態を承知した。 『夏潮』ホームページの主宰ブログ「汐まねき」 には、病室からの絵画館の屋根の写真で、「私の髪形とそっくり」とか、一時退 院時には三浦半島先端辺りを一人吟行したり、<時ものを解決するや春を待つ  虚子>を引かれたりしている。 たびたび誌友の健吟を求めておられる、「それ が私の生き甲斐ですから」と。

 ご入院中、喜ばしいニュースが届いた。 1月28日、本井英主宰が昨年5 月に刊行の『虚子散文の世界へ』(ウェップ)で、俳人協会の第32回評論賞を 受賞されたのだ。 高浜虚子は、偉大なる俳人として認識されているが、自分 では「俳句」と「文章」(小説家)の両方を「綯(あざな)へる縄の如し」とし て対置している。 しかし毎日新聞社版『定本高濱虚子全集』でも、虚子の「散 文世界」全体に目を配った編輯とは言いがたく、いくつもの珠玉の作品を落し てしまっているという。 「散文世界」をもう一度点検し、評価することで、 虚子の全体像に迫り、そこで明らかになったことが、再び虚子の俳句作品の価 値をも照らし出してくれるものと確信して、執筆された一冊だ。

 2月12日には、朝日新聞朝刊「俳壇歌壇」のコラム「うたをよむ」に、本 井英主宰の「旧正月のこと」が掲載された。 古来、年中行事は旧暦で営まれ てきたわけで、桃の節句には桃が咲き、菊の節句には菊が咲く。 7月7日の 七夕は旧暦なればこそ、すっかり梅雨も明けた晴天の夜空に二つの星が輝くの であった。

旧正月から三日目の2月18日の日曜日、『夏潮』新年会がアルカディア市ヶ 谷で開かれた。 本井英主宰のご出席が心配だったが、宗匠のような(宗匠な のだが)お姿で、3時間近い83人出句の句会も、その後の宴会も、お元気に通 された。 ベッドで養生していると、いろいろ考える。 『夏潮』連載を『評 伝 高濱虚子』に、【虚子『五百句』評釈】や、別冊『虚子研究号』の「「戦地よ り其他」を読む」もまとめたい。 『夏潮 雑詠選集』を編んで、今日の暗澹と した俳句状況を変え、花鳥諷詠論の写生句で「俳句の進むべき道」を示したい。  それには投句者の本気度が問われる、と。