福沢諭吉の「道徳の教授法は似我の主義に存す」2018/03/02 07:15

 福沢諭吉の「道徳の教授法は似我の主義に存す」のポイントは、以下のよう なところであろうか。 道徳の根本は、有形の数理でなく、無形の人情に存す るものだから、これを人に伝える法もまた、無形の間に言うべからざるもので ある。 例えば物理数学のようなものは、学び得て心に合点すれば、すなわち わがものとなって、教えた人とは関係がない。 学ぶ者は、教師の人物を問わ ず、その品行を論ぜず、その人を目的とせずに、その芸能知識を師とするもの で、これを有形学の教授法という。 それには書籍を選び、器械を吟味する必 要がある。 これに反して、道徳の教えは、書籍の効用は微々たるものである だけでなく、同様の書籍でもその効用はさまざまに働くものが多い。

 「故に其教授法の極意は似我の主義に存するものにして、教師が夫れ是れと 教授の方法を工風して、書籍を擇び講義の法を巧にするも、詰る所は我れに似 よと云ふに過ぎず。」

 「道徳教授法の専ら人物に関係するは、唯直接の教師と学生との間のみに止 まらず、徳教の著書は書中の論説よりも其著者の品行如何に由て軽重を為し、 徳育の方法は法の便不便よりも其発起者の心衡如何に従て行はるゝと否とにあ り。」

 「徳教の要は唯似我の一点に止まり、教ふるには非ずして寧ろ見習ふものな れば、凡そ之に関係する者は……(中略)……自から其身を顧みて裏にも表に も品行に就ては毛頭の瑕瑾なからんことを勉めざる可らず。即ち無形の際の教 授にして、徳育正味の勢力は此辺に在て存す。我輩の常に注意して重んずる所 の道徳の教授は唯この一法あるのみ。」

 「我輩が徳育に就て特に之に関係する人を重んずる由縁なり。天下の道徳論 者、内に自ら省みて果して疚ましきものあらざれば即ち可なりと雖も、或は然 らざるに於ては、少年子弟は直接にも間接にも、君が言行に倣ひ、君が心衡を 学び、君に類し、君に似んことを勉む可きなり。」