「龍馬暗殺 最期の宿に秘められた真相」2018/03/16 07:25

 そこで坂本龍馬潜伏の宿選びである。 磯田道史さんが、現在の京都を歩い て、いろいろ考える。 龍馬の定宿だった寺田屋は、前年伏見奉行所の捕方に 襲われていた。 もう一軒の定宿、酢屋(材木商)は海援隊が使っていてマー クされている。 薩摩や土佐の藩邸は、大使館のような治外法権の聖域で、安 全ではある。 土佐藩邸は、現在岬神社(別名、土佐稲荷)のある付近、暮六 ツという門限があり、活動の自由が制約される。 河原町の近江屋(醤油商) は、その土佐藩邸から4~5メートルの距離にあり、いざという時、逃げ込む ことができる。 慶應3(1867)年11月5日、龍馬は近江屋に入った。 寺 田屋の女将お登勢は、危険だから藩邸に入れという手紙を出しているが、龍馬 はその返事で、幕府の京都守護職会津藩主松平容保や要職の若年寄格永井尚志 に会っているから、大丈夫だと答えている。 永井からは大丈夫という免状(?) ももらっていたのだろう。 大政奉還後、反発した会津藩(京都守護職)が、 西郷、小松、大久保らを薩摩藩邸に襲撃することを企図し、危険を察知した西 郷らが17日、京を離れてからは、龍馬は薩摩藩邸にも入れなくなったのだろ う。

 ここで【坂本龍馬略年表】(NHKこころをよむ・豊田穣『坂本龍馬を語る』 1991年)を見ておく。 「慶応3(1867)年10月、越前福井へ向かい、三岡 八郎と会談、新政府の財政、金札発行など。11月5日、京都で「新政府綱領八 策」を起草する。同月10日頃、河原町四条下ル近江屋新助方へ移り住む。14 日、風邪気味のため、土蔵から母屋へ移る。15日、中岡慎太郎と刺客に襲われ、 即死。下手人は幕府見廻組佐々木只三郎ら7名とされる。」

 番組に戻る。 11月15日、近江屋の階下には、ボディーガードの力士藤吉 がいたが、斬られた。 醤油醸造屋の天井は低く(磯田道史さんが似た造りの 沢井醤油を見る)、龍馬は173センチの長身、小太刀が有利だった。 龍馬に は大小34カ所の刀傷があった。 『勝海舟日記』は、襲ったのは見廻組組頭 佐々木只三郎率いる幕臣だとした。 会津藩公用方(公用人)の手代木直右衛 門(てしろぎすぐえもん、佐々木只三郎の実兄)は、殺したのは実弟只三郎と 語った。

 ドラマ『龍馬 最後の30日』、暗殺5日前の手紙<小人閑居日記 2018.2.5. >に書いたように、問題の中根雪江宛11月10日付手紙の追伸で、龍馬は「今 日、(幕臣の)永井尚志方を訪ねたが面会できず、談じたい天下の議論が数々あ り、明日も訪ねたいと思っているので、ご同行願えれば大幸に存じます」と書 いていた。 『英雄たちの選択 選』で、磯田道史さんは、永井尚志が滞在して いたのは大和郡山藩邸で、その目と鼻の先に見廻組下宿の松林寺(通称 やす寺) があった。 永井が暗殺の黒幕だった可能性は低いけれど、龍馬は、前日まで の3日間、永井を訪ねているので、その後を付ければ居所は知れるとした。 会 津藩公用方の手代木直右衛門は、龍馬暗殺は某諸侯の命によるもので、死の直 前に、某諸侯は「松平容保」と語っている。

 政治的暗殺だったが、徳川入りの大名連合政府という公議政体論は最後とな り、徳川方は大損となった。 もし、龍馬が暗殺されなかったら、戊辰戦争の ない省エネ維新が出来ていたかもしれないという。

 龍馬暗殺後、討幕派の中心人物である公卿岩倉具視、薩摩藩士の西郷隆盛や 大久保利通らは、事態を打開するため、挙兵してクーデターに訴えようとはか った。 12月8日夜、表向きは朝敵となっていた長州藩をはじめ、討幕派公卿 らの免罪が朝廷で可決されたあと、翌9日早暁、薩摩、尾張、越前、土佐、安 芸の5藩兵で御所を警備し、討幕派およびこれに同調的な公卿、諸侯のみを参 内させて、天皇の前で御前会議を開き、「諸事神武創業の始に原(もと)づ」い て新しい政権が成立した旨の、いわゆる「王政復古の大号令」が発せられた。