交詢社のはなし2018/03/19 07:13

 「交詢社私擬憲法」が出てきたので、福沢諭吉の三大事業の一つとして「慶 應義塾」「時事新報」とともに挙げられる「交詢社」について、以前書いたもの を今日明日で再録しておく。 「交詢社のはなし<小人閑居日記 2005.10.18. >」と「等々力短信 第974号 2007(平成19)年4月25日『交詢社の百二 十五年』」である。 なお、慶應義塾大学出版会のホームページの若い研究者た ちによる連載「ウェブでしか読めない福沢諭吉・慶應義塾」に、「近代日本の中 の交詢社」著者:住田孝太郎(首都大学東京大学院社会科学研究科政治学専攻博 士課程・1973年生れ)があり、下記から読める。 http://www.keio-up.co.jp/kup/webonly/ko.html

     交詢社のはなし<小人閑居日記 2005.10.18.>

 17日、入学以来45年の歳月が経った大学のクラス会を銀座の交詢社でやっ たので、思いついて「交詢社」に関するメモを作って配った。(それに若干加筆) 交詢社は「知識を交換し、世務を諮詢(しじゅん)する」をスローガンに福沢 諭吉の主唱により、明治13(1880)年1月25日に設立された日本最古の社交機 関。 「交詢社」の名はこの中の「交換」「諮詢」から付けられた。 世務…天 下、人の世のすべてのこと。 諮詢…問いはかること。相談。「諮」は諮問(意 見を尋ね求めること)の「諮」。 「社交」を推奨した福沢が、その一つとして 交詢社のような組織を考えたのには、幕末イギリスでクラブを見たことが影響 しているのだろう。

 明治13年といえば、時あたかも自由民権運動の最盛期で、福沢自身も『分 権論』『通俗民権論』『民情一新』『国会論』などの著書を矢継ぎ早に刊行してい た時だから、福沢が中心になって結社ができると聞くと、政党組織を結成する のではないかと、政府筋でも目を光らせ、世間にもそういう目で見る者もいた らしい。 政府の機密探偵が交詢社を注視していたことは、6.25.「等々力短信」 第952号『蝶の舌』に書いた。 交詢社の社員で塾員の矢野文雄と馬場辰猪が、 小幡篤次郎、中上川彦次郎、牛場卓蔵、小泉信吉(のぶきち)、阿部泰蔵、荘田 平五郎等と語らい、イギリス流の議院内閣制、皇室を政治の外に君臨させる「私 擬憲法案」を作り、明治14年4月『交詢雑誌』第45号で発表した。

 創設当初の社員(メンバー)は1800名ほど、官吏、学者、商業、農業が大部分 で、しかも過半数は地方在住、職業や学歴、居住の地域に偏らない、広く社会 で活躍する人材を網羅した組織だった(だから慶應義塾の卒業生だけのクラブ ではない)。 質疑応答を中心とした機関紙『交詢雑誌』の発行は、今日まで続 いている。 毎週金曜日には常例午餐会が開かれている。 現在も女性の会員 を認めていないのは、イギリスの紳士のクラブを倣(なら)ったためだろうか。

 明治13年設立当初、福沢の親友だった宇都宮三郎が煉瓦建の家屋を提供し、 その後増改築を重ねたあと、大正12(1923)年の関東大震災で焼失、敷地を拡張 して昭和4(1929)年に前の7階建のビルディングが建った。 その主要部分を 復元保存した現在の建物は昨2004年10月落成。 ロビーには、福沢諭吉、宇 都宮三郎、小幡篤次郎、鎌田栄吉、門野幾之進という交詢社の功労者の肖像画 が掲げられている。