「「ホトトギス」の「戦地より其他」を読む」2018/03/25 07:04

 2016年の『「夏潮」別冊 虚子研究号Vol.VI』、本井英先生の「「戦地より其 他」を読む(一)」を読む。 「はじめに」に、「本稿は高濱虚子と「戦争」、就 中(なかんずく)、昭和12年から同20年に至る、「支那事変」および「大東亜 戦争」との関わりを点検しながら、虚子という人物について考察するための基 礎作業の報告である。」「具体的には「ホトトギス」昭和12年11月号から、昭 和20年2月号に至るまで、7年余の間連載された「戦地より其他」なる読者か らの寄稿を精査し、さらにその間「ホトトギス」雑詠欄に於ける「戦地」から の投句を点検することによって、虚子にとって「支那事変・大東亜戦争」が何 であったかを知ろうとするものである。」とある。 雑誌「ホトトギス」のオー ナーであり、編集者としての虚子という側面から、それら戦争の「現場の姿」 を掲載し、選句した虚子の戦争への態度、思いを探ろうとしている。

 その期間を便宜的に四期、「支那事変前期」「支那事変後期」「大東亜戦争前期」 「大東亜戦争後期」に分ける。 まず、「戦地より其他」の「支那事変前期」。  昭和12年7月7日、北平(現在の北京)郊外、盧溝橋で起こった日支両軍の 衝突(「盧溝橋事件」)は、通州事件等を経て本格的な戦闘に到り、両国の全面 戦争の容相を呈してきた。 さらに8月には上海の日本人租界地区に迫った中 国軍と日本の海軍陸戦隊との間でも激しい戦闘がくり広げられた(「第二次上海 事変」)。

 「10月号」雑詠末尾の一句<流弾の飛びくる窓の花槐(えんじゅ) 天津 大 庭みさ越>の註には、「七月二十九日午前一時十五分より砲声起り(中略)、明 け待ち侘びる心、短夜の長き事、夜が明けはなれ午前七八時砲声まれとなり引 続き思ひ出しては撃つ砲の音時々、同界を守る飛行機の響き、死の街の静けさ」。

 号外等の新聞報道とは異なり、現地の一俳人が写生文の心を以て記した、こ の「註」は大いに編集者虚子の心を捉えたことであろう、という。 虚子は「戦 時」という局面を「ホトトギス」の内容の一つとするために、積極的に戦地か らの「雑詠投句」、「投稿」に道を開く。 それが「軍事郵便」の活用で、雑詠 末尾に「戦線出勤の将士諸君の雑詠投稿に限り、軍事郵便葉書でも差支へない 事に致します」と記した。

 長谷川素逝の場合が、詳しく書かれている。 長谷川素逝は、当時「ホトト ギス」の雑詠で絶好調、虚子にとって「若きホープ」であったから、野砲連隊 少尉としての出征は「ホトトギス」全読者にとっても関心事であったに違いな いという。 そして「支那事変」という舞台で最も活躍した俳人として記憶さ れ、その句集『砲車』は今もって「戦争と俳句」といえば必ず引用されるそう だ。 「12月号」掲載の手紙、「上陸以来、水と泥濘の湿地の中を急進\/の 難行軍の百数十里でありました。時には馬上膝のあたりまで水が及ぶやうな深 い水の中を行かねばならぬこともありました。砲車は泥の中に喰ひこんで動か なくなることしば\/、馬は倒れますし、然も情況は急を要するといふ有様、 泣くに泣かれぬ気持ちでみんなが一生懸命に進んで来ました。」

 「昭和13年1月号雑詠」巻頭を占めた素逝の四句。

みいくさは酷寒の野をおほひ征く   ○○連隊 長谷川素逝

友をほふり涙せし目に雁たかく         同

ねむれねば真夜の焚火をとりかこむ       同

をのこわれいくさのにはの明治節        同

 「昭和13年3月号掲載の南京陥落10日後、12月19日付手紙」の一部、「南 京近くなってから、私たちは幸にも南京攻撃の第一線に出ました。それだけ私 たちは沢山のタマを敵から受けました。友人もたくさん死にました。タマが来 ると思はず頭をさげるといひますが今度はそれどころでなかつたです。」「ある 時はあまり近く迫撃砲のタマが沢山付近に落ちるので、大切にしまつておいた お菓子を出して、それを食べずに死んでしまつてはつまらないとみんな食べて しまひました。タマの来るのがをさまつてしまふと、食べずにもつとのこして おいたらよかつたなと苦笑しました。」

 長谷川素逝少尉の野砲連隊は、この後、北支へ進軍、山西省の討伐から、5 月には徐州戦に参加、6月に迫撃戦中に中国軍の爆破による黄河大氾濫に巻き 込まれる。 その後、発病して青島に転送、内地に転院して、結局は除隊、静 養の後、甲南中学の教授となるも、病勢募り、戦後昭和21年に満39歳で没し た。

デリカテッセン<等々力短信 第1105号 2018.3.25.>2018/03/25 07:06

 「おふくろの味」とは言うけれど、「親父の味」は聞いたことがない。 昨年 二十三回忌だった父は、ちっぽけなガラス工場を経営し、口が悪くて「半端人 足(息子も含め)を集めて何とかやっていくのが零細企業の親方」と言ってい た。 だがモガ・モボ世代で、若い時に、小さな貿易商社に勤めたり、猟犬を 飼って鉄砲撃ちをするような人の別荘に出入りしていたからなのか、生活に洋 風なところがあった。 戦争直後、私が育った頃の日曜日の朝食は、GEのト ースターでパンを焼き、MJBのコーヒーをパーコレーターで淹れ、カーネーシ ョンのミルクを入れていた。 だからリビーのコンビーフや、レバーペースト の味は、私も小さい頃から知っていた。 後年まで銀座に出ると、並木通りの 「ケテル」で、ハムやソーセージ、レバーペースト、ミートパイなどを、土産 に買って来た。 その習慣を、私も「ケテル」がなくなるまで引き継いでいた。

 父の言う一流が、どの程度のものか分からないが、子供には一流のものに触 れさせたい、味わわせたいというのが、父の方針だった。 折に触れて、銀座 なら八丁目の「千疋屋」や三越裏に今もある「みかわや」、自由が丘の「トップ」 などのレストランで食事をした。 そうした懐かしい味は、「親父の味」と言っ ていいのかもしれない。

 昔「等々力短信」第716号(1995(平成7)年8月25日)に、「枝豆の王者」 を書いた。 父の故郷の地である庄内、山形県鶴岡の枝豆、香りの強い白山ダ ダチャのおいしさを、「ほのかに甘くて、おつとりしてゐて、典雅である」と、 鶴岡出身の丸谷才一さんの句集『七十句』の言葉を引いて紹介した。 「ダダ チャ」とは、庄内の方言で「一家の主人」「父親」を意味する。 等々力に住ん で、最寄り駅の尾山台の商店街の奥、もうすぐ環八という手前を左に曲がった ところに、「DA DA CHA ダダチャ」というハム・ソーセージの専門店を見つ けた。 ご夫妻で営む店の名の由来は、「とってもおいしいソーセージを売るお 父さんの店」で、奥さんが鶴岡出身だからだと聞いた。

 「DA DA CHA」には、昔ながらのソーセージスタイルのレバーペーストが ある。 きめ細かく挽いた豚肉と豚レバーに、たまねぎを入れてマイルドに仕 上げたという。 ロース・ハムが絶品だ。 二週間じっくりピックル液に漬け 込んで、さくらのチップでスモークするそうだ。 ボロニアやビア、ビアシン ケンなど各種のソーセージや、ウインナーも、もちろん結構な味である。 オ ーブンで焼いたソーセージの、レバーケーゼ、わがままケーゼ、オニオンケー ゼなども、私の好みである。 奥沢に越してからも、「DA DA CHA」は、往復 五千歩ほど、ちょうどよい散歩の距離なので、ちょっと贅沢をしたい時に、訪 れる。 歩きながら、父のことを思い出したりするのだ。