神吉拓郎、戦時中の中学・高校生2018/03/27 07:13

 久し振りに神吉拓郎さんの小説が読みたくなった。 本屋の光文社文庫の棚 に『二ノ橋 柳亭』という魅力的な題のがあって、手に入れた。 すると、1981 年に文藝春秋から『ブラックバス』という題で出た短編集で、のちに文春文庫 に入ったものの改題だった。 巻頭の「ブラックバス」の題に記憶があったの は、直木賞の候補になったからだろう。 当時、単行本で読んだと思うが、み んな内容は忘れていた。

 昭和3(1928)年生れの神吉拓郎さんが、麻布中学に入ったのが昭和16(1941) 年、私が生まれた太平洋戦争(「「戦地より其他」を読む」の「大東亜戦争」)開 戦の年だ。 中学時代に麻布から千歳烏山に疎開し、中学卒業後、七年制の成 城高校に入学している。

 「目の体操」という一篇がある。 「私たちの中学校は、麻布の高台にある 私立の中学校だが、海軍兵学校へ進む生徒が多かった。海軍士官のある種のス マートさが、その私立中学の気風と合っていたのかも知れない。二年生か三年 生に進級して、兵学校の受験資格の年齢に達すると、毎年大勢が受験した。そ して、多い年は、七八十人が兵学校その他の軍関係の学校へ入学して行った。 これは全国でも一二を争う数字だった。」

 「私」も海兵を受けるつもりだったが、視力に問題が出る。 何とか視力を 高めようと、「目の体操」を始める。 麻布の高台にある家から、向いの白金あ たりの台地に目を凝らしたり、遠近二つの目標を決めて、すばやく交互に焦点 を合わす練習をしたり、夜は屋根に寝転がって星を眺めた。 目を動かす運動 をすればいいと、同級生が教えてくれた。 しかし、結果は芳しくなく、海軍 兵学校はさよならとなった。

 その年度に限って、繰り上げ卒業という方法が取られ、日本中の中学の四年 生が五年生と一緒に卒業させられた。 四年で卒業すると、「私」は小田急の沿 線にある七年制高校の高等科へ入学した。 理科甲類、工学部を目指す学生が 多い。 だが、入学式の翌日から、行く先は工場であった。 高校のある学園 町の、ひとつ先の駅の近くにある工場で、作っているのは、機銃の弾丸を帯状 につなぐ挿弾子(そうだんし)という部品だった。 若い海軍中尉が一人、監 督官として詰めていた。

 工場は二十四時間動き続けていて、高等科は昼夜の二班に別けられ、鋼板か ら打ち抜いて、ケトバシと称する足踏みプレスで曲げ加工する作業をした。 単 純な作業だけに、疲れて放心状態になって来ると危険だった。 一瞬、手を引 くのが遅れれば、なんであれ押し潰してしまう。 「私」たちの仲間の何人か は、それで指を失っている。 「私」たちと同じ年代には、手の不自由な人間 が多い。 指を失ったり、手首から先がなかったり、片腕を失ったものもいる。  「どうもヤクザと間違えられて困るよ」と、後年になって苦笑していた男もい る。