江戸の水道と松尾芭蕉2018/04/11 06:27

江戸川橋からの神田川の桜

川口政利さんのお話の会「六義園の水の出入りと海老床地図」のことを書く 前に、ちょっと江戸の水道の歴史にふれておく。

何を好んで、日本の人口の一割を超す人々が、東京を中心に群れているのか。 結論を先に言えば、秀吉のサル知恵に、その遠因があった。 天正18(1590) 年、北条氏の小田原城を攻めていた時、石垣山の本陣を訪れた家康を、城を見 下ろす高台にさそって、二人並んで放水しながら(「関東の連れ小便」の始め)、 城が落ちたら家康にやる、居城は東へ十数里の江戸という所にしろ、と戦後処 理の構想を述べて、指示した。 徳川の正史『徳川実紀』は、徳川恩顧の五か 国を奪い、ながく北条氏の下にあった関東に移せば、必ず一揆が起きる、それ を機に徳川を潰そうとしたとして、関東転封秀吉陰謀左遷説をとっているそう だ。

 家康は、七つの台地を背にした、沼と葦原の低湿な荒蕪地、百軒ほどの漁師 が住むひなびた一漁村に、本拠を構えることになった。 大規模な江戸の町づ くりが始まった。 駿河台が今の岩本町のあたりまで伸びていた神田山を切り 崩し、新たに神田川を掘り、その土で江戸城前面の日比谷入江を埋め立て、浜 町以南、南新橋までの土地を造成した。 昔の銀座の尾張町、加賀町、出雲町 は、その工事を担当した大名の国名に由来する。 よく落語に出てくる吉原通 いの土手八丁「日本堤」は、隅田川の洪水対策に、日本中の大名を動員して築 かせたことによるそうだ。 江戸湾に注いでいた利根川を付け替えて、銚子に 流したのも洪水対策と新田開発であり、水上物資運搬の大動脈とし、利根川を 北関東の外堀に東北諸藩とくに伊達氏への備えだった。

 江戸の町づくりに、家康は北条攻めでさんざん苦労した小田原を参考にした。 その一つが上水(飲み水)である。 海沿いに城下町をつくった小田原は、 井戸を掘っても塩分やミネラルが多く(それが魚の脂を流すので、蒲鉾が名産 品にはなったが)、早川から日本一古い上水を引いていた。 埋立地の多い江戸 も条件は同じで、当初から飲料水の確保が大問題だった。 さっそく天正18 (1590)年工事を開始、寛永6(1629)年に井の頭池の湧水を水源とする「神 田上水」を完成した。 途中から善福寺池と妙正寺池の湧水が合流し、小石川 の関口に至るのだが、ここまでは川同様の野方堀で、堀幅は平均2メートルほ どであったという。 関口には大洗堰(おおあらいせき)があり、一旦水を堰 き止めて芥を除き、脇の小洗堰から、さらなる上水路に水を流し、余り水は江 戸川となって流れていった。 上水路の水は水戸藩邸内を通り、懸樋(かけひ) で神田川を渡したのが駅名にもなっている「水道橋」で、ここから石樋や木樋 (木管)の伏樋(ふせび)=地下水道(地下2~3メートルの)となって、江 戸の町々へ網目のように配水されていった。 この伏樋の総距離は67キロに も及び、長屋などで上水を汲む上水井戸の数は3662か所と記録されている。

 俳人松尾芭蕉は、神田上水と関係がある。 文京区「関口」の地名は、この 大洗堰、小洗堰の所在地から来ているのだが、広重の「名所江戸百景」にもあ る「関口芭蕉庵」という史跡がある。 俳人松尾芭蕉は、伊賀の藤堂家の家臣 だった頃、34歳の延宝5(1677)年から延宝8(1680)年までの4年間、請け 負った神田上水の改修工事の監督をして、この地にあった「竜隠庵(りゅうげ あん)」という水番屋に居住していた。

私が、桜を見に「関口芭蕉庵」へ行きたかったのは、そのためだった。