「玉川上水」⇒「千川上水」⇒六義園2018/04/12 07:35

 川口政利さんのお話の会で、「玉川上水」(東京都水道歴史館)というパンフ レットを頂いた。 なかなか渋くて、何部もくれないので、ご夫妻が何度か通 われたらしい。 そのパンフレットによると、昨日書いた天正18(1590)年 の「神田上水」の工事開始と同時に、家康の家臣大久保藤五郎が小石川を水源 とし、神田方面に通水する「小石川上水」を作り上げたと伝えられているとい う。 そして「神田上水」は寛永6(1629)年に完成する。 一方、江戸の南 西部は赤坂溜池を水源として利用していたが、三代将軍家光のとき参勤交代の 制度が確立すると、人口増加が加速、新しい水道の開発が必要になった。

 幕府は承応元(1652)年、多摩川の水を江戸に引き入れる「玉川上水」計画 を立てた。 庄右衛門、清右衛門兄弟を工事請負人に任命し、承応2(1653) 年4月工事に着手、羽村取水口から四谷大木戸までわずか8か月で開削した。  全長43キロの区間を、約92メートルの標高差(100メートルでわずか21セ ンチ)を利用して水を流すように設計されており、当時の水利技術の高さがう かがえる。 翌年6月には虎ノ門まで地下に石樋(せきひ)、木樋による配水 管を敷設し、江戸城を始め、四谷、麹町、赤坂の台地や芝、京橋方面に至る市 内の南西部一帯に給水した。 工事に尽力した兄弟は、褒賞として玉川の姓を 賜った。 川口政利さんによると、この工事の物語は、杉本苑子『玉川兄弟― 江戸上水ものがたり』(文春文庫)に描かれている。

 「玉川上水」は、羽村からいくつかの段丘を経て、武蔵野台地の稜線部を流 れ、四谷大木戸まで到達する自然流下方式の導水路だから、台地の各部に分水 することが可能となり、多くの分水が引かれた。 分水は、飲料水、灌漑用水、 水車の動力として利用され、水の乏しい武蔵野台地の開発を大きく貢献した。  玉川上水開削工事の総奉行であった川越城主松平信綱がその功績を認められ、 明暦元(1655)年、「野火止用水」(私の通った慶應義塾志木高校の校内を流れ ていた)に最初の分水が行われた。 明暦の大火(明暦3(1657)年)後、拡 大した江戸の水需要を支えるため、「青山上水」「三田上水」「千川上水」に分水 された。 寛文7(1667)年には、水量の少ない「神田上水」にも助水された。

 川口政利さんが「六義園の水の出入りと海老床地図」で話題にしたのは、こ の内の「千川上水」である。 元禄9(1696)年、五代将軍綱吉の命により開 削が行なわれた。 分水口の境橋が多摩郡仙川村に近く、仙川村を通した上水 なのが名の由来で、仙の字を吉字の千に改めて千川とし、仙川村の太兵衛・徳 兵衛が開削の功績で、千川の姓を賜った。 公の目的は、小石川御殿(綱吉の 別荘)、湯島聖堂(幕府学問所)、上野寛永寺(徳川家菩提寺)、浅草浅草寺(幕 府祈願所)への給水だが、六義園(綱吉の寵臣・柳沢吉保の下屋敷)内の池へ も大量に引水された。 私は思う、綱吉が、自身の別荘・小石川御殿や、寵臣・ 柳沢吉保の下屋敷に引水したのは、文字通り「我田引水」だ。 「将軍案件」 というより、ずばり「将軍命令」だから、「忖度」の必要もない。

 川口さんは、実際に「千川上水」の流路を歩いて、六義園の景観の中心をな す池“大泉水”の水源は明らかで、多摩川⇒(羽村)⇒「玉川上水」⇒(境橋) ⇒「千川上水」⇒(西巣鴨:千川上水分水堰)⇒六義園と流れて来ている、と言 う。 六義園からどこへ排水されたかには、二説があった。 A説・現在は暗 渠となっている谷田川(下流で藍染川と名が変わる)へと流していた。 B説・ 江岸寺、圓通寺門前を通り、東洋大学を経て、鶏声ヶ漥(窪)に抜け、後楽園 で小石川と合流していた。 現在論争は、ほぼB説で決着し、川口さんもそれ を支持している。 その論拠となるのが、「六義園の水の出入りと海老床地図」 であった。