滝野川反射炉と関口製造所2018/04/15 07:15

 「滝野川反射炉」で検索をしたら、『ウィキペディア』の「関口製造所」が出 て来た。 「関口」については、書いたばかりだ。 内容を読むと、まったく 知らなかったことばかりで、実に興味深い。 「関口製造所」は、江戸幕府が 幕末に設置した兵器製造工場だという。

 幕府は、黒船来航で、急ぎ江戸湾防備の対策に取り組み、嘉永6(1853)年 8月下旬から品川台場の建設を始めた。 そこに設置する大砲を製造するため、 湯島(現在の東京医科歯科大学所在地)に幕府直営の「湯島馬場大筒鋳立場」 が設けられた。 安政2(1855)年の組織改革によって小銃製造も行われ「湯 島大小砲鋳立場」と改称した。 江川太郎左衛門英龍の指導で鉄砲鍛冶が大砲 の鋳造を行っていたが、従来からの製法による青銅砲であったため品質が低く、 そのため欧州の先進技術を導入した新工場が計画された。

 それが「関口製造所」である。 文久2(1862)年2月、関口水道町で新工 場の建設が開始され、12月に小栗忠順が銃砲製造の責任者に任ぜられると、製 造所頭取には武田斐三郎が任命され、同時に友平栄などを製造技術者として登 用した。 この場所が選ばれたのは、砲身に咆腔を錐であける錐鑚機の動力と して水車を用いるため、水利の便がよかったからである。(『ブラタモリ』#99 「薩摩の奇跡」の尚古集成館の立地で、同じことを言っていた。) 咆腔に螺旋 状の溝を切る旋条機などの機械類はオランダ、フランスから輸入された。 文 久3(1863)年に操業を開始し、文久元(1864)年には小栗により幕府大砲製 造事業の合理化が図られ、「湯島大小砲鋳立場」を廃止して「関口製造所」に統 合された。

 「関口製造所」で製造された大砲は青銅製であったが、当時の欧州では鉄製 大砲の時代を迎えていた。 そのため、元治元(1864)年、関口に反射炉を建 設することが計画されたが、低湿地のため反射炉の建設には不適だった。 他 に適地を求めて滝野川村(現在の酒類総合研究所東京事務所所在地)に建設を 決定し、武田斐三郎が責任者となり工事が進められた。 耐火煉瓦は伊豆梨本 から運び、器材は韮山反射炉で使用していたものを移転させ、慶応2(1866) 年には完成した。 これが「滝野川反射炉」である。

 明治元(1868)年、新政府は「関口製造所」・「滝野川反射炉」を接収し、軍 務官の管轄下に置き、兵器の製造修理を行った。 明治3(1870)年、兵部省 に造兵司が新設されると、その管轄下となり、翌明治4(1871)年、造兵司は 「関口製造所」・「滝野川反射炉」の設備を元に、近代兵器生産の拠点工場とし て東京工場を小石川の旧水戸藩邸跡(元後楽園遊園地)に建設し、火工所(小 銃実包の製造)が操業、翌年には銃工所(小銃改造・修理)、大砲修理所の作業 が開始された。 これが東京砲兵工廠の始まりとなった。