「シラス」と「たんたど石」も元勲2018/04/20 07:14

 NHK『ブラタモリ』制作チームは、公益社団法人 地盤工学会の平成29年度 地盤工学貢献賞を受賞したそうだ。 受賞理由は「国民的人気番組によって、 古くから日本の文化や産業には地盤とそれを形成する地盤構造物が深くかかわ っていることを一般市民に広く発信し、地盤工学の社会的イメージの向上に多 大な貢献をした。」

 割に最近の『ブラタモリ』3月10日・17日放送、「#98鹿児島」「#99鹿児 島の奇跡」、共にお題は「なぜ鹿児島(薩摩)は明治維新の主役となれたか?」 だったが、鹿児島の地質学研究50年という大木公彦鹿児島大名誉教授が嬉し そうに解説していた。 鹿児島県を中心とする九州南部には、「シラス」で覆わ れた台地が分布する。 「シラス」は、火山から噴き出た火砕流が固まってで きた。 白色で孔隙(こうげき)に富み、崩れやすい。 「シラス」の特徴が 急な崖と平らな台地を生んだ。 あっけないほどすぐに本丸に達する鶴丸城の、 本丸の裏には切り立った崖が特徴の「城山」がある。 城山の上には平らな台 地があり、兵士を集め守りを固める「曲輪」や「武器弾薬庫」を置くのに好都 合だった。 城山の麓には、泥岩の層と「シラス」の層の境目があり、水が湧 き出ている。 やっかいなものと考えられがちな「シラス」を、さまざまな工 夫で活用しているのだ。

 鹿児島の台場は、嘉永6(1853)年のペリー来航で建設を始めた江戸の台場 よりも早く天保11(1840)年に築かれた。 鹿児島の位置は江戸より、西洋列 強の脅威を受けやすい場所にあり、文政7(1824)年には宝島事件というイギ リス人との銃撃戦が起きていたし、天保8(1837)年にはアメリカが通商要求 したモリソン号事件もあり、天保13(1842)年にはアヘン戦争で清が破れた。  この台場に使われた石は、「シラス」でなく、「たんたど石」で、この石があっ たから、鹿児島は明治維新の主役となれたというのだ。 タモリ一行がバス停 「たんたど」近くの石切り場へ行く。 正面はシラスの崖で、その下に「たん たど石」の石切り場があった。 「たんたど石」は「溶結凝灰岩」、火砕流が高 熱と高圧で溶け固まった岩石だ。 ともに巨大火山からの火砕流だが、固さの 違う二つの層になっているのは、時代が違うからだ。 「溶結凝灰岩」は、50 万年前、北京原人の頃。 「シラス」は、2万9千年前。 降り積もったシラ スの台地が、川の流れで削られて、「溶結凝灰岩」が顔を出した。 「溶結凝灰 岩」は、「柱状節理」(溶岩が冷えて固まる時にできる柱のような割れ目)とい う割れ目が目立ち、切り出しと加工がし易く、石材に最適。

 薩摩藩は、この「たんたど石」「溶結凝灰岩」を、さまざまな近代的事業に使 った。 タモリ一行は、万治元(1658)年に島津光久によってつくられた別邸、 磯庭園(仙巖園)に移動する。 そこには『西郷どん』で28代当主島津斉彬 を演じた渡辺謙が待っていた。 庭園の灯籠では、石炭でガスをつくり、配管 をしてガス灯を灯した。 有名な明治5(1872)年の横浜のガス灯より15年 も前のことだ。 松尾千歳尚古集成館館長が、竹林を切り開いてつくった反射 炉を案内した。 斉彬の命令で、3~5トンの大砲をつくるために、オランダの 本を参考に築いた。 土台の材料は「溶結凝灰岩」、剃刀の刃一枚も入らない精 密な加工ができた。 その土台の上に、非常に重量のあるものが載る。 何万 個という耐火煉瓦だが、鎖国で輸入はできないから、これも斉彬の厳命で、な んとか従来の技術、薩摩焼で白っぽく重い耐火煉瓦を焼いた。 15日に「滝野 川反射炉」に書いたように、ここに反射炉を築いたのは、砲身に咆腔を錐であ ける錐鑚機の動力として水車を用いるのに、仙巖園の裏山からの水利の便がよ かったからだ。

 いま尚古集成館の資料館になっているのは、全長77m(黒船と同じ長さ)の 機械工場の建物だが、「溶結凝灰岩」でも、赤煉瓦でもない。 「溶結凝灰岩」 は触ると冷たいが、その材料「小野石」は触っても冷たくない。 断熱効果が あって、夏涼しく、冬温かい。 「小野石」は10km先から採集されて来てい て、そこは加久藤(かくとう)カルデラの範囲である。 「シラス」と「溶結 凝灰岩」(「たんたど石」)は、「姶良(あいら)カルデラ」でつくられた。

 『新しい高校地学の教科書』に、こうある。 鹿児島湾は桜島で南北に仕切 られ、奥側はきれいな円形をしている。 これは「姶良カルデラ」といい、極 端な規模の噴火をしたところである。 約2万2千年前の大噴火では膨大な量 の火砕流が九州南部一円を埋めてシラス台地を形成し、大量の火山灰が日本中 を覆った。