「マンダラート」ソリューション2018/04/25 06:21

「オオタニサーーン!」エンゼルス・大谷翔平選手の活躍で、花巻東高校時 代に書いたという「81マス」が、話題になっている。 1988(昭和63)年3 月25日の「等々力短信」第456号に「観自在マンダラ」というのを書いてい た。

    等々力短信 第456号 1988(昭和63)年3月25日

             観自在マンダラ

 バインダー手帳の流行に、触発されて読んだものの中で、今泉浩晃さんの『創 造性を高める メモ学入門』(日本実業出版社)という本が、面白かった。 ハ ウツウもののように思われるかもしれないが、そうではない。 「メモという、 ささいな行為、ささいな技術を通して、人生を語り、生きがいを創り、人間と して持っている潜在能力を引きだし、創造性を開発し、能力を高め、充実した 生活を創りだそうよ、創りだせるよ」という哲学を背景にした、生き方の提案 なのである。 具体的には、一枚の紙を九つのブロックに分割した「マンダラ ート」とよぶメモ用紙を使い、四方八方、自由自在に、関係のありそうな思い つきを、書き込んでいく。 九つの空欄を強制的に埋めさせるのが、マンダラ のミソで、これまでに得た知識や情報が、視覚的に、目に見える形で、ネット ワークとして体系づけられ、整理されて出てくる。 つまり、モノが見えてく る。

 マンダラートで、今泉さんが説いているのは、私たちが今までの人生経験の 中で蓄えてきた膨大な量の知識を、どのようにしたら智慧に変えられるか、活 用できるかという方法だ。 頭の中に既にある知識を引き出し(潜在意識を活 性化させ)、組み合わせ、新しい結合を創ってやることによって、問題を解決し ていこうという。 この技法が、梅棹忠夫「こざね法」や川喜多二郎「KJ法」 の、大きな流れの中にあるのは、確かだ。

 情報の収集整理と、その利用において、もっとも陥りやすい失敗は、それが マニア的な「収集のための収集」になってしまうことである。 「活用するこ とが目的で、保存しておくことは手段にすぎない」というのが、ファイリング の原則だそうだ。 この世の中、知ってはいる、わかってはいるけれど、実行 に結びつかないことが、たくさんある。 道具立てだって、けっこう整ってい るのだ。 ただし、使いこなしているかとなると、疑問である。 カード一つ にしても、それをたえず、くったり、かきまぜたりして、採集した情報を、ど う現在の課題に生かすかが、問題なのだ。 わかっては、いるのよ。

 思い立ったが吉日、5×3カードに縦二本横二本の茶色の線を引いて、九つ の空欄を持った「マンダラ」カードを作り、使い始めた。 それが、はたして 今泉さんの御託宣の通り、昼アンドンのごとき日常を送っている私にも、パチ ンコ屋のイルミネーションのように輝く、創造の火をともし、活力に満ちた充 実した日々を、もたらすのであろうか。 南無マンダーラ、マンダラゲ。

                              轟亭

「海老床地図」「安政年代 駒込周辺之図」を読む<等々力短信 第1106号 2018.4.25.>2018/04/25 06:29

 学徒出陣した慶應の学生が、特攻出撃を前に、よく銀ブラした銀座通りの店 の名を一軒一軒思い出して絵図にする話があった。 東大赤門前から、東京メ トロ南北線に沿って、本駒込、駒込、西ヶ原に至る本郷通りは、江戸時代、将 軍がお通りになる日光御成街道だった。 平成27(2015)年に文京区有形文 化財に指定された「海老床地図」というのがある。 富士神社近くの(今もご 子孫が住む)、江戸時代の髪結床の系譜を引く理髪店「海老床」の十代目店主嶋 村八十八氏が明治42(1909)年頃、東京名所図絵の内、駒込冨士浅間と神明 宮付近の絵図を父・文治郎に見せて、詳細に聞いた話を、絵図に書き加えて下 書きし、昭和10年に、時代を安政年間(1854年~60年)に設定し、浄書した ものだ。 新宿区若葉の荻野光忠氏が、昭和56年に模写している。

 家内の中学同級生で本駒込在住の川口政利さんのお話の会「六義園の水の出 入りと海老床地図」を聴きに行き、その地図の一部をブログで紹介したら、動 坂下への道と交わる浅嘉町二丁目(現在の本駒込1丁目)から西ヶ原霜降り橋 に至る全図のコピーを頂いた。 これがすこぶる面白い。 道路と寺社はほと んど、そのまま残っている。

 この大通りは日光御成街道だから、将軍家お通りの時、両側の家では主人や 男共は軒下に土下座、女子供は店先に座ってお辞儀をしていなければならない。  これが窮屈なので、ある家が表戸を閉ざして「貸家」の札を貼り、家中で浅草 の観音様へ遊びに行った。 将軍様お通りの時になって、その「貸家」の中で 鶏が鳴くので、役人が裏手に回ってみると、裏はがら明きで、鶏が何羽も遊ん でいた。 早速家主が呼び出されて、大叱られに叱られたという。 吉祥寺の 隣は、しちや、湯や(二階に茶を出す女がいるので、若い者の遊び所と成て居 る)、魚・小料理 魚欽、町内・木戸(これは火事其他非常ノ時ニ閉るもので是 を乗りこえて通る者ハ関所破リト同罪ニ處せられるとなり)、金物や、油や、草 やね師字名(あだな)やねクメ、古道具や、カゴヤ、(その裏に長屋の屋根が描 かれ)「この長屋に甘酒ヤ喜太郎と云ふ親孝行者有リテ御奉行よりごほうびを貰 ひしと成り」、かざりや、筆墨商山田ヤ、河越様ノ浪人内山某。 少し先に、紙 くづの立場字名キンタマ米ヤ、ごふくや清水や、その奥、吉祥寺の墓場に面し て「嘉平次さんの椎ノ木山」があり、「此ノしひノ木林の中で時々バクチ(長半) が開かれ其時は清水ヤノ杉山わきの小道の立木ニ「熊坂道」ト記した張紙があ り」とあるが、熊坂長範(長半=丁半)のシャレだろう。 養昌寺の手前にも 「紙くずの立場字名カミ金」があり、「有名なスリの親分仕立ヤ銀次ハ若い時こ の紙キンの家に居た。」 「孝行糖」「へっつい幽霊」や「一文笛」、落語国の住 民が、生き生きと動き回っている。