加藤秀俊さんの『社会学』、現代の世間話2018/04/27 05:15

 加藤秀俊さんの『整理学』(中公新書・1963(昭和38)年)のことを書いた ら、新聞の広告で同じ中公新書から新刊『社会学』が出版されたのを知った。  第一章は「「社会学」――現代の世間話」。 英語のsocietyを社会と翻訳した初 めは、明治8(1875)年1月14日の東京日日新聞の福地源一郎で、「知識階級」 「上流階級」を意味する文脈で使われているという。 福沢諭吉には、その翌 年に創刊した『家庭叢談』という雑誌で、「一国一社会ノ文明ノ進歩ハ」うんぬ んという用例もあると続く。 私としては、福沢が慶応4(1868)年の『西洋 事情 外編』でsocietyを「人間交際(じんかんこうさい)」と訳したことを、 ここで書いて欲しかったと思う。 それは、後段の議論で、章の題名にもある ように、「社会学」は現代の世間話であるという話になるからであった。

 加藤さんはいう。 日本に「社会」がなかったわけではない。 こんな訳語 がなくても、そのことばによって意味されるものはずっとむかしからあった。  日本語ではそれを「世間」といっていた。

 「社会学」Sociologyという用語のはじまりは1876年、イギリスのハーバー ト・スペンサーの『社会学原理』三巻本だった。 大学でさいしょに正規の学 科目となったのは、アメリカのシカゴ大学で1892年、ヨーロッパではフラン スのボルドー大学が1895年だった。 実は日本が早かった。 外山正一(と やままさかず)は、幕臣としてイギリスに留学し、明治4(1871)年から5年 間アメリカに渡ってミシガン大学で哲学と科学を学び、帰国後は明治10(1877) 年に東京大学が設置されると日本人としてさいしょの教授となった。 担当し た「史学」のなかで、ハーバート・スペンサーの『社会学原理』を講読する「社 会学ノ原理」という講義をおこなった。 外山はアメリカから、エドワード・ モースという動物学者を生物学担当のお雇い教授としてつれてきたが、その友 人のアーネスト・フェノロサもおなじく東京大学にむかえられることになった。  フェノロサは岡倉天心を育て、日本の文化芸術にかかわった人物としても有名 だが、もともとはハーバード大学で政治経済を学び、東京大学で政治学、理財 学(経済学)などを教えた。 フェノロサは同時に「ソシオロジー」も担当し たが、この講義は日本語では「世態学」と訳されていた。 外山正一とフェノ ロサの二者併存の開講からの状況は、明治19(1886)年の「帝国大学令」の 発効までつづき、このとき「社会学」は晴れて独立の学科になった。 おどろ くべきことに、シカゴ大学やボルドー大学に先立つことほぼ十年、これについ ては世界でもっとも先端的な国だった、と加藤さんは指摘している。

 それはさておき、加藤さんは、「社会」というのは、「世間」のことだ、と理 解すれば、べつだん「社会学」などと名づけなくても、われわれはずいぶん以 前から世間を学ぶことを知り、それを日常経験としてきた、という。 「世間 話」こそ、「社会学」の萌芽なのだ。 その世間話のあれこれに興味をもち、そ れをこまやかに記録する伝統にかけては日本は世界で突出していた。 一般に 「江戸随筆」とよばれている厖大な量の雑記録がそれである。 『浮世のあり さま』、松浦静山『甲子(かっし)夜話』、大田南畝『一話一言』、喜多村信節(の ぶよ)『嬉遊笑覧』などなど。 世間話の運搬者、「遊行女婦(ゆうこうじょふ)」 や宗教的布教者たち、行商人などが、たくさんいた。 さらに、ほうぼうを遍 歴し、職業を転々として、数奇な人生をおくった「世間師」がいた。 いまで も現代版「世間師」なのかもしれない「話題の豊富なひと」がいる、落語の横 町の隠居のようなひと、それが市井の「社会学者」なのだ、と加藤さんはいう。

 加藤秀俊さんは、ことし88歳、米寿だそうだが、学問と年齢は関係ないと、 あとがきにある。 私は本日、77歳になった。 まさに隠居だけれど、当<小 人閑居日記>や<等々力短信>も、「江戸随筆」の流れをくむ、昭和平成の「世 間話」の末端をうろついているとすれば、「社会学」なのかもしれないと思って、 ニヤリとした。

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