熊谷守一《某夫人像》の謎2018/06/02 07:05

 豊島区立熊谷守一美術館の「熊谷守一美術館33周年展」で、《某夫人像》を 見た。 ほかの絵に比べ12号(59.5×48.5)と大きいのは、大正7(1918)年 9月の第5回二科展に出品した作品だからだ。 不思議な題名だが、のちに結 婚する秀子の肖像なのである。 まっすぐに、こちらを見つめて、ふっくらと した頬や唇が赤く、左頬と少しはだけた襟元から鎖骨のあたりに光が当たって、 初々しい感じの娘さんという印象だ。 次女の榧館長の解説だったと思うが、 ニスがかかって暗い絵だったのが、修復してみたら、なまめかしい感じになっ て、どっきりしたという。

 福井淳子さんの『いのちへのまなざし』に戻る。 本郷曙町の福家辰巳の家 などでの音楽仲間との交流で、熊谷守一は、時にはいたずらでチェロやヴァイ オリンを弾くこともあった。 熊谷のチェロは、信時潔にいわせると「音楽学 校生徒の二週間目ぐらいの腕前」だったというが、バッハが好きで、のちに福 井淳子さんは熊谷から直接「絵を見れば、その絵かきが音楽を好きかどうか、 すぐわかる」という言葉を聞いている。 ヴァイオリンの川上淳や颯田琴次、 ピアノの貫名美名彦など、音楽学校入学から10年以上、それぞれ技量も高い 連中だった。

 《某夫人像》の秀子は、明治31(1898)年、和歌山県田辺市の素封家・大 江爲次郎の次女として生まれた。 幼い時から親族によって結婚相手が決めら れていたという。 大阪の女学校にいたとき、信時潔の妹と同窓で、絵が好き だったので、東京にいた姉を頼って上京し、絵の勉強をしていたようだ。 そ んな関係で音楽仲間の集まりに顔を出し、熊谷との出会いがあった。 熊谷は、 秀子の描く絵を「素直で、欲がないところがよい」と好感を持っていた。 《某 夫人像》が描かれた大正7(1918)年当時、熊谷守一は38歳、秀子は20歳、 秀子が婚約者との正式結婚の前だった。

 出会いから4年後、いくつかの障碍を乗り越えて、大正11(1922)年9月、 守一と秀子の「二人暮らし」が始まった。 この間の成り行きについては、守 一も秀子も、生涯、みずから語ることはなかったという。 おそらく友人たち が「ふたり」の支援を惜しまなかったのだろう。 信時潔は、終生の友となっ た。 福井淳子さんが出会ったとき、ふたりはすでに老夫婦だったが、高齢で あっても秀子は守一に、作品の気に入った点、分からない点など、女学生のよ うに率直に遠慮なく口にする一方で、終始守一を気遣っていて、傍で見ていて もほほえましい雰囲気があった、という。 また、守一も、秀子の遠慮ない物 言いを笑って受け流しながら、秀子の体調をいつも心にかけていて、いたわっ ている様子が伝わった、そうである。

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