横浜初等部で信時潔についてのレクチャーを聴く2018/06/14 07:13

 信時潔と、彼の作曲した「慶應義塾塾歌」については、2012年のこの日記に いろいろ書いていた。 改めて読んだら、信時潔の作曲した数々の作品や、信 時潔と福沢諭吉の生誕地が大阪の堂島川を挟んだ対岸にあることなどにも触れ ていた。

ベオグラードに響いた信時潔の「塾歌」<小人閑居日記 2012. 6. 18.>

「『塾歌』から見えてきた『信時潔』」<小人閑居日記 2012. 6. 19.>

「大学教授 与謝野寛―「幻の塾歌」の周辺―」<小人閑居日記 2012. 6. 20.>

西国分寺に響いた信時潔の「塾歌」<小人閑居日記 2012. 12. 14.>

「海ゆかば」と信時潔<小人閑居日記 2012. 12. 15.>

 6月9日、慶應義塾横浜初等部で「信時潔旧蔵ピアノとリードオルガン修復 記念レクチャーコンサート」があり、青葉三田会のご縁で聴く機会を得た。 信 時潔の孫(次男の息子だそうだ)の信時茂さんが横浜初等部教員で、まず挨拶 をした。 『三田評論』2017年5月号「丘の上」に書かれた「祖父のピアノ」 によると、2017年2月に、国分寺市にある信時潔が関東大震災の翌大正13 (1924)年から亡くなるまで40年ほど住んだ築90年を超す家が取り壊され、 そこにあったピアノとリードオルガンが山内慶太前初等部長の勧めで初等部へ 寄贈、修復されることになったのだそうだ。 レクチャーと解説も孫の信時裕 子さん(三男の娘だそうだ)、長年祖父・信時潔を調査研究し、東京音楽大学(私 立)図書館司書、日本音楽学会会員、2009年に信時潔の自筆譜や蔵書、楽譜等 が東京藝術大学付属図書館に寄贈された際には、科研費助成事業「信時潔に関 する基礎研究」の研究員として同館・信時潔文庫の資料整理、目録作成を担当 したという。

 レクチャーは、信時潔が明治20(1887)年、大阪北教会の牧師吉岡弘毅の 三男として生れ、高知教会(1歳~6歳)、京都室町教会(6歳~9歳)をへて、 大阪北教会に戻り、11歳で北教会の長老のひとり、信時義政の養子になったこ とから始まった。 教会に親しんだ幼時の生活が洋楽への道を拓き、オルガン と讃美歌とともに育つ。 大阪の市岡中学から、明治38(1905)年東京音楽 学校の入学試験は当時唱歌を歌うだけで、合格、チェロを専攻、チェロの先生 はいなくて本で勉強した(それで指の持ち方が違う)。 チェロの第一人者とい われた時期があって、大正13(1924)年のベートーベン第九の初演ではチェ ロのトップを務めている。 明治43(1910)年に研究科器楽部に進学、さら に作曲部で学んで大正4(1915)年修了(9年とちょっと学生だった)、助教授 に就任した。 大正9(1920)年ベルリンに留学、ゲオルク・シューマン(有 名なロベルト・シューマンとは別人)に師事、作曲(合唱曲「あかがり」はド イツで作曲。自筆譜が東京藝術大学付属図書館・信時潔文庫の貴重楽譜データ ベースで公開されているので、ネットで見られる)、合唱団指導などを学んだ。  帰国後、大正12(1923)年1月東京音楽学校甲種師範科卒で熊谷女学校教員 の白坂ミイと結婚、この年教授となる。 ミイ夫人は、作曲した楽譜の清書を し、秘書のような役割を果たした。 信時家のリードオルガンは、ミイ夫人が 弾いていたものらしい。 信時潔は、昭和6(1931)年東京音楽学校本科作曲 部の創設に尽力し、実現。 昭和7(1932)年、教授を辞任して講師となり(例 のないことで、事務仕事が苦手だったかららしい、以後作曲等に注力できた)、 定年まで週に一回は通った。 合唱、管弦楽団の指導、唱歌編纂にも関わる。  昭和7年、『新訂 尋常唱歌集』編纂の代表者となり、「秋の山」「一番星見つけ た」「公孫樹」「遠足」「影法師」「雁」「電車ごっこ」「動物園」「夏の月」「兵隊 さん」「ポプラ」「森の歌」「鷲」を作曲した。