佐藤允彦さんのピアノが歌ったナンバー2018/06/23 07:10

 日本外国特派員協会は、有楽町電気ビルの北館20階にある。 昔は、毎日 新聞社があって、有楽町駅から日比谷の映画街へ行くのに前を通ると、輪転機 が回っているのが見え、インクや紙の匂いがして、印刷工場の工員たちが外に 出て休憩していた場所だ。 佐藤允彦さんは、付近の話をして、カリオカ・ク ラブ当時、数寄屋橋の下は川だった、阪急デパートがあって、やがて川は埋め 立てられた、と。 5丁目と6丁目の間の路地、川のへりに、ミカサというカ レー屋さんがあって、美味しかった。 行くと、「学生さん、お一人」と。 女 の人と来ると、「お連れさん、一人」、盛りが違う、値段は同じ。 その頃、流 行っていた曲を弾きましょう。 そういえば、今年は大政奉還150年というこ とで、明治の初めからの曲を、順番にやるイベントがあった。

《ここからは、「曲名」のところで、佐藤允彦さんのピアノが鳴り響いている ことを、想像しながら読んで下さい。》

 まず1929(昭和4)年、世界大恐慌の年の「東京行進曲」西條八十作詞・中 山晋平作曲 歌・佐藤千夜子。 戦後、服部良一が登場した。 1947(昭和22) 年の映画『見たり聞いたりためしたり』主題歌、「胸の振り子」サトウハチロー 作詞・服部良一作曲 歌・霧島昇。 同じ年、「東京ブギウギ」鈴木勝作詞・服 部良一作曲 歌・笠置シヅ子。 2年後の1949(昭和24)年、「銀座カンカン 娘」佐伯孝夫作詞・服部良一作曲 歌・笠置シヅ子、高峰秀子。 焼け跡から立 ち上がる活力があった、日本は元気だった。

 1957(昭和32)年、「有楽町で逢いましょう」佐伯孝夫作詞・吉田正作曲 歌・ フランク永井。 銀座のキャバレーなどは、いわゆる銀座警察が仕切っていた が、時に違う組が殴り込みをかけてくることがあり、ダンスフロアーで大乱闘 が始まる。 バンマスが「あれやれ!」というので、この曲、オッフェンバッ クの喜歌劇「天国と地獄」序曲を弾いた。 無声映画や運動会の定番である。  夜の12時過ぎの営業は駄目だという条例ができて、調べが入ると、明かりを 消して、バンドのメンバーもとたんに客席に移動して、酒を飲んでいたふりを する。 日本は、やばくないか、という時代だった。 ちょっと後の1961(昭 和36)年、通称「銀恋」、「銀座の恋の物語」大高ひさを作詞・鏑木創作曲 歌・ 石原裕次郎 牧村旬子。

川が埋め立てられて、高速道路が出来、大学卒業の1964(昭和39)年、東 京オリンピックがあり、東海道新幹線が開通した。 同時代に、素敵な映画が 二本あった。 リチャード・ロジャース作曲の『サウンド・オブ・ミュージッ ク』と、レオナルド・バーンスタイン作曲の『ウエストサイドストーリー』。  リチャード・ロジャースは1930年代からいい曲を書く大御所で、1937(昭和 12)年に有名な「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」があった、今はチョコレ ート屋の宣伝の曲。 「マイ・フェイバリット・シングス」(ミュージカル『サ ウンド・オブ・ミュージック』より)は元気になる曲、1959(昭和34)年初 演・1965(昭和40)年映画、リチャード・ロジャース作曲、オスカー・ハマ ースタイン2世作詞。 レオナルド・バーンスタイン(NYフィル指揮者)の 作曲は、革新的だった。 佐藤允彦さんが一番好きだという、「サムウェア」(ミ ュージカル『ウエストサイドストーリー』より)1957(昭和32)年初演・1961 (昭和36)年映画、スティーヴン・ソンドハイム作詞。

 会の最後に、「丘の上」1928(昭和3)年、青柳瑞穂作詞・菅原明朗作曲を弾 いてくれ、全員で肩を組んで歌った。 この日、昭和30年日吉高卒の田村滋 さんの同伴者で大塚羡弘さんが参加しておられた。 慶應義塾創立百年祭の 1958(昭和33)年の応援指導部団長、女子高生の憧れの的で、堀口大學さん に「王者ぞわれら」の作詞(作曲は山田耕筰)を頼みに行った方だ(いつも福 澤諭吉協会でお会いする小坂和明さんは旗手、一緒に堀口大學さんのお宅に行 ったと聞いている)。 佐藤允彦さんのピアノ、大塚羡弘さんの指揮で、和気藹々 の愉しい会のフィナーレに相応しい、超豪華な「丘の上」となったのであった。