「有楽町」今昔ものがたり2018/06/24 06:23

 私は、東京オリンピックがあり、東海道新幹線が開通した1964(昭和39) 年、大学を卒業すると、銀行に入行し、銀座支店に配属された。 右も左もわ からないのに、学校の先輩だった支店長の方針で、なぜか得意先係に配属され、 毎日カバンを下げて、銀座の表裏を歩き回っていた。 集金をして、釣銭用の 両替の小銭を届ける喫茶店があった。 支店では、両替の小銭がなかなか完全 には準備できない。 パチンコ屋を担当していた先輩が、奥の手を教えてくれ て、集金の中から両替してもらったりして届けていた。 ほとんど毎日その5 丁目の喫茶店に行っていたのに、後年、どうしてもそのお店の名前が思い出せ なかった。 カフェ・パウリスタのパウリスタが「サンパウロの人」の意であ るように、その店も南米の地名に関係があったのは、何となく憶えていたのだ が…。 それが、「ジャーミネーターの会」で、佐藤允彦さんの銀座ジャズピア ノ事始のトークを聞いて、判明したのである。 カリオカさん、だった。 そ うそう、銀行の支店に帰ると、出納係の女性が、「カリオカさんから電話があり ましたよ」と、言うのだった。 カリオカ、リオデジャネイロ生まれの人、ま たは住民の意だった。 佐藤允彦さんと若干年代は違うが、ニアミスをしてい たことになる。

 BSプレミアムの月曜7時に「TOKYOディープ」という番組があって、たま たま6月18日が「有楽町」だった。 モデルの生方ななえという人が「有楽 町」を歩いた。 佐藤允彦さんが演奏した「有楽町で逢いましょう」は、デパ ートの「そごう」が東京に進出する際のキャッチコピーから生まれたのだとい う。 1957(昭和32)年5月25日に「有楽町そごう」開店、その大キャンペ ーンのコピーが先で、これは歌になると作詞の佐伯孝夫がひらめいた。 民謡 調の高い音の歌謡曲、演歌から、都会的で洗練されたムーディーな低い音の歌 謡曲を求めていた作曲の吉田正が、低音のフランク永井を起用して、大ヒット となった。 有楽町マリオン(昔の日劇)前に、フランク永井の歌碑があり、 吉田正の楽譜入りサインが見えた。

 今、「有楽町」に住民票を置いている人口は、たった18人だそうだ(平成30 年5月1日現在)。 有楽町駅から日劇へ行く途中の左手は、古くは闇市、パ チンコ屋や飲み屋(すし屋横丁)がある雑然とした一帯だったのを、私などは よく憶えている。 あそこを再開発中の2005(平成17)年、江戸時代の大岡 越前守の南町奉行所跡が出土した。 その記念物が、イトシア(「有楽町で逢い ましょう」の歌詞「雨も愛(いと)しや」にかけているのだろう)地下の待ち 合わせ広場にある。 火事の多い江戸のこと、南町奉行所では「穴蔵」と名づ けて、裁判記録など公文書を、最近のように破棄などせず、頑丈な木の箱に入 れ、地下に収蔵していた。 それが広場の壁に埋め込まれ、その前のベンチは、 これも出土した水道の木樋でつくられている。 奉行所の石垣は、椅子に加工 され、何も知らない人達が腰掛けている。

 映画館スバル座のことや、私が銀行の集金に通っていた、ガード下の焼き鳥 屋さんの話などは、また明日。