敗戦への道 1944(昭和19)年「サイパン失陥」2018/07/11 07:15

 加藤陽子さんの「敗戦への道 1944年(昭和19年)」は、同年7月9日のア メリカ軍によるサイパン島占領、日本にとっては「サイパン失陥」が、太平洋 戦争の決定的なターニングポイントになったとする。 前年1943年(昭和18 年)夏にかかるころには、太平洋各地域での戦況の悪化は明らかになっていた。  ヨーロッパ戦線でも、ソ連に侵攻していたドイツ軍が崩壊し、イタリアが連合 国軍に降伏していた。 このような戦況悪化の危機感から、大本営が戦略を立 て直し、43年9月30日の御前会議で決定されたのが「今後採るべき戦争指導 の大綱」で、その眼目は「絶対国防圏」の設定にあった。 「絶対国防圏」は、 戦争の遂行上、太平洋・インド洋方面において「絶対確保すべき要域」を「千 島、小笠原、内南洋(中・西部の南洋群島)、西部ニューギニア、スンダ(現在 のインドネシア)、ビルマ(現在のミャンマー)を含む圏域」と定めたものだ。  実は、この圏内には、ガダルカナル島を含むソロモン諸島や、ラバウル航空基 地のあるニューブリテン島などは含まれていない。 戦線を縮小し、その分、 圏内の防備を強固にしようという狙いがあったが、その外側は、非情な言い方 をすれば、時間稼ぎの捨て石とされ、つまり見捨てられたのだ。

 1944年春、サイパン島守備隊の大増強が行なわれ、陸海軍は統合軍をつくる。  海軍中部太平洋方面艦隊の司令部をサイパンに置き、その指揮下に陸軍の第三 十一軍・第四十二師団が入り、統合された4万4千人の大部隊で、上陸してく る米軍を水際で撃滅する、というのが大本営の作戦だった。 44年6月、戦い は米機動部隊から発した艦載機のサイパン島・テニアン島・グアム島への空襲 と激しい艦砲射撃によって始まり、15日早朝、米軍はサイパン島南西海岸に上 陸作戦を開始する。 水際撃滅のため海岸近くに構築していた防御陣地は、す でに艦砲射撃で破壊されており、圧倒的な火力の支援を受けた上陸部隊に、守 備隊は後退を余儀なくされた。 上陸作戦の続いている6月19日・20日、サ イパン西方で「マリアナ沖海戦」があり、日本の完敗だった。 日本側空母3 隻沈没・4隻損傷、艦載機400機損失、アメリカ側空母2隻損傷、艦載機117 機損失、もはや日本には大型空母は1隻しかなくなって、事実上、機動部隊は 壊滅したといっていい。

 この海戦の大敗を受けて、大本営は、米上陸部隊による防御の突破後、ただ ちに立案を開始していたサイパン増援計画(奪回作戦)を中止し、これにより サイパン守備隊の命運は定まった。 制空権・制海権を握られて、救援も来な い守備隊は、アメリカ軍の攻撃に追われて、島内を北へ三週間も敗走を続け、 消耗も限界に近づいた7月6日、島北端に近い山中の洞窟で、司令長官、師団 長ら4人の指揮官は自決する。 しかし彼らは、自決に先立って翌朝の総攻撃 を命令していた。 残存の兵士らは、その命令に従い、翌7日朝3時を期して、 いわゆる「バンザイ突撃」を行い、全滅した。 その数、およそ3千人。 捕 虜となることを恐れたり潔しとしない民間人も多数自決、この戦い、日本人の 死者は、軍人約4万4千、民間人約1万2千人といわれる。

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