サイパン以後の最後の1年半に大半が戦死2018/07/12 07:17

 1944(昭和19)年7月9日のアメリカ軍によるサイパン島占領、「サイパン 失陥」の恐るべき意味は、戦略的・政治的・社会的に日本がほんとうに困る「本 土空襲」が日程に上ったことにあった。 有名な「B29」という大型爆撃機は、 サイパンの戦いの直前、5月に運用を開始していた。 翼幅43メートル、全長 30メートル、1万メートルの高度を航行でき、最大で9トンもの爆弾を投下で きた。 航続距離も長く、爆弾搭載時で約5千3百キロ、つまりマリアナ諸島 から日本本土までの距離は約2千4百キロだから、日本本土を空襲して帰って 来られることになったのだ。

 アメリカ軍は、最強の機動部隊と7万人近い兵力をつぎ込んでサイパン・マ リアナ諸島を攻略(グアムの場合は奪還)するやいなや、サイパンでも、テニ アンでも、グアムでも、大車輪で航空基地群を建設・整備し始めた。 そして、 1944(昭和19)年11月、日本本土への空襲が始まった。 当初は軍需工場の 破壊を狙った戦略爆撃だったが、1945(昭和20)年3月に方針が変わる。 2 月の硫黄島上陸作戦に呼応したのだ。 硫黄島は、東京から南へわずか1千2 百キロの距離にある。 ここまできたら、日本本土への上陸は時間の問題だ。  それを踏まえれば、爆撃の効果をもっと上げる必要があった。 そこで採用さ れたのが、都市への無差別絨毯爆撃である。 その最初の対象となったのが、 東京、「3月10日の大空襲」だ。 10日未明、300機近い「B29」から投下さ れた約19万個の焼夷弾は、下町全域を焼き尽くし、10万人もの人間が、焼死・ 窒息死・溺死したのだ。 そしてその後も、大阪・名古屋・横浜・鹿児島など、 「B29」の焼夷弾は全国の主要都市に恐るべき被害を与え続けた。 (4歳の 私も東京品川で、5月24日からの空襲に遭い、立会川の中で一夜を過ごした。) しかし、戦争は続けられた。

 沖縄本島では、4月から6月にかけて、この戦争で国内唯一といってもいい 地上戦が行われ、守備隊約10万人と民間人約10万人が亡くなった。 それで もなお戦争は終わらなかった。

 8月6日と9日には、テニアン島を飛び立った「B29」から広島と長崎に原 子爆弾が投下され、広島で14万人、長崎で7万人が亡くなる、人類が初めて 経験する惨禍をもたらした。 さらに8月8日には、ソ連が日本に宣戦布告し、 ソ満国境を越えて150万の赤軍が満州に侵攻を開始し、多くの日本人市民が犠 牲になった。 そして8月15日、ようやく戦争は終わった。

 日中戦争から敗戦までの軍人・軍属の死者は約2百3十万人。 そのうち約 6割の百4十万人が広い意味の餓死だったという研究があるそうだ。 こうい う数字もある。 岩手県出身兵士の戦死者数の年別推移で、全体で30,724人 のうち、1944年・45年の死者が87・6%を占めている。 9割に近い軍人が、 最後の1年半に戦死しているのだ。

 「日中戦争・太平洋戦争での戦死者3百十万人の大半は、サイパン以後の1 年余りの期間に戦死している」とし、敗戦間際にかくも犠牲が拡大したのは、 総力戦段階に入った戦争の招いた悲劇だったと、加藤陽子さんは考える。