『季題ばなし』「朝顔」2018/07/14 07:00

 昨日の朝、今年の四色の写真である。 右上が「団十郎」、その隣を一応「江 戸紫」、左の日の当たっているのを「青」、手前を「空色」と呼んでいる。

 俳句雑誌『夏潮』に、「季題ばなし」を連載させてもらっていた第二回、 2010(平成22)年9月号に「朝顔」を書いていた。 昨日の流れで、引いて おく。

 「朝顔」が秋の季題だというのも違和感がある。入谷鬼子母神の「朝顔市」 は七月六、七、八日だし、「朝顔」の観察は小学一年生の夏休みの宿題の定番だ。 しかし「朝顔」という言葉には長い歴史があるのだそうだ。万葉の山上憶良が 美しい女性の寝起きの顔のような花という比喩で、朝貌之花と称して、秋の七 草の一つに数えたのは桔梗。つぎに輸入された木槿(むくげ)が、さらに舶来 の牽牛子(けにごし)と呼ばれた現在の朝顔が当てられた。牽牛子は牽牛花と もいい、その名は七夕の牽牛・織女から来ていて、旧暦七月七日つまり初秋の 花という認識だったわけだ。

 二百数十年平和が続いて、江戸時代は園芸ブームであった。菊坂の菊畑、新 宿百人町鉄砲組百人隊のツツジの栽培など、花作りを副業にする武士も多く、 麻布や巣鴨の御家人たちも花を栽培して市場に出していた。時代ごとに人気の 花が変化して、元禄のツツジ、正徳のキク、寛政のカラタチバナ、そして文化 文政のアサガオ・ブームが来る。人々は品種改良を重ねて変化アサガオを競っ た。文化五、六(一八〇八、〇九)年頃、下谷御徒町に住んでいた大番組与力 の谷七左衛門、朝顔が好きで、その変種を作って楽しみ、並べた細竹に蔓をか らませ、極彩色の屏風を立てた形にした。人々は「朝顔屋敷」と呼んで見物に 集まった。七左衛門から種を分けてもらって、あちこちの空地で朝顔の栽培が 始まり、「下谷朝顔」は江戸名物になった。

 ここ十年ほど毎年、新暦の七夕に開かれる入谷鬼子母神の朝顔市へ行く。早 朝から、たいへんな混雑だ。近年は一鉢定価二千円、これでひと夏楽しめる。 朝顔の鉢を提げて電車に乗り、入谷から遠く離れるほど、みんなが見る。江戸 の名残の、季節の風物詩という感じが色濃いが、入谷の朝顔市、江戸から連綿 と続いているわけではない。

 七左衛門の「下谷朝顔」が元祖で、下谷から入谷にかけて大輪の花を咲かせ ることが流行った。しかし天保改革から幕末には朝顔どころではなく、いつの 間にか廃れ、忘れられた。それが明治の初めに「入谷」で復活、明治二十五(一 八九二)年前後に最盛期を迎え、十数軒の植木屋が朝顔の異種を競った。明治 末年からは、この辺りが市街地になって、途絶える。鬼子母神真源寺境内を中 心に「入谷の朝顔市」として復活したのは、昭和二十五(一九五〇)年のこと だった。真源寺は戦後の地番改正で下谷一丁目、「入谷」ではないのがややこし い。万太郎の句は昭和十九年作。

 入谷から出る朝顔の車かな     正岡子規

 暁の紺朝顔や星一つ        高浜虚子

 あさがほやはやくもひゞく哨戒機  久保田万太郎