「“餓島”の参謀 一人、無言の遺骨収集」の反響2018/07/23 07:12

 ブログ「轟亭の小人閑居日記」には、時々、思わぬコメントが入ることがあ る。 2007年 5月7日に書いた「父たちの戦場」には、翌2008年12月にな って、ガダルカナル島で激戦の36年後のその当時、遺骨の収集と慰霊に執念 を燃やしていたという元参謀、細川直知さん(68)のお孫さんから、お尋ねが あった。 お孫さんは、そのお子さん達に細川直知さんのことを話す時の資料 にと思って、ネットを検索していて、私のブログを見たというのだ。 祖父の ことが書いてある本を知りたいというお尋ねだった。

 私は、細川直知さんの件は、友人故小谷直道君の『小谷直道 遺稿・追想集』 で承知しただけで、他の本は知らない、「“餓島”の参謀 一人、無言の遺骨収 集」という該当記事は、1978年(昭和53年)8月12日の掲載なので、『読売 新聞』の縮刷版でも見られるだろうと答えた。 やりとりがあって、結局、『小 谷直道 遺稿・追想集』の該当個所をコピーして、お送りした。

 すると、お孫さんから、こんな返事が来た。 祖父がガダルカナル島に遺骨 収集に行った頃は、自分も若かったので、あまり興味がなく、いろいろ現地の 写真を見せてもらった記憶ぐらいだ。 その祖父も77歳で他界し、父も今年 他界した。 世の中、聞く人がいなくなると急にいろいろ知りたくなるものだ。  祖父はアメリカと戦ったが、私の娘はアメリカ人(U.S.NAVY)と結婚し て現在、厚木基地に住んでいる。 なんとも面白い巡り会わせだと思う。 祖 父が知ったらなんと言うのだろう、と。

 小谷直道君の「“餓島”の参謀 一人、無言の遺骨収集」(1978(昭和53年) 年8月12日)から引く。 「アメリカとオーストラリアを分断しようとする 海軍は、ガダルカナル島ホニアラに近い平地に飛行場を作った。出来上がって、 さて使おうとした昭和17(1942)年8月、上陸してきた米軍に、横取りされ てしまった。以降、翌年2月までの6か月間、このヘンダーソン飛行場を中心 に、血を血で洗う激戦が続くのである。/あれから36年――、いまなお戦没 者の慰霊のためにガダルカナル島に踏みとどまる元陸軍大佐・三十八師団参謀、 細川直知さん(68)(現三井金属鉱業現地嘱託)に会った。/細川さんは、さ る(昭和)49(1974)年10月から、妻の静子さん(58)と共にホニアラに移 り住み、山の中や川のほとりを歩いては、遺骨を拾い集め、自宅に設けた安置 室に持ち帰る作業をコツコツ続けてきた。ところが一昨年8月、脳血せんで倒 れ、東京で一年半ほど療養生活を送った。右半身不随となったが、さる3月、 周囲の心配を払いのけて、また島へ戻った。/「ま、現地へ行ってからご説明 しましょう」。まだ歩行が不自由な細川さんと、激戦の跡をたどることになった。 /米軍占領後、一番乗りした一木支隊が攻撃を受けたイル川、米軍が「血染め の丘」と呼ぶムカデ高地、九州山丸と見られる輸送船が沈められた海岸、日本 軍がジャングルに分け入った丸山道……細川さんは、たんたんと説明し、ほと んど私見は加えない。」

 「細川さんは、香港、バレンバン攻略に参加後、18(1943)年12月にガダ ルカナル島に上陸、食糧を断たれ、マラリアに苦しむ兵隊たちの、まさに「餓 島」の惨状を目のあたりにした。陸軍士官学校教官になって島を離れ、第三軍 参謀で終戦。25年までシベリアに抑留されていたが「あの惨状は、脳裏から離 れなかった」という。」

 戦死者数を質問した小谷記者に、細川さんは「それを言うのが一番つらい。 いいかげんな数ではいけませんから、あなたが帰る時までにキチンとした数を 申し上げましょう」と答え、翌朝ホテルまで出向いてくれ、二つ折りにした一 枚の便せんを差し出し、開けて読む間もなく「では、お元気で」と立ち去って しまった。 <日本軍上陸人員3万1358、戦死・戦傷死・戦病死・行方不明2 万1138> <米軍作戦参加人員約6万、うち戦死者約千、負傷4千245> (防 衛庁戦史室著『南太平洋陸軍作戦(2)』による。)

 加藤陽子さんの『とめられなかった戦争』(文春文庫)「敗戦への道 昭和19 (1944)年「サイパン失陥」<小人閑居日記 2018.7.11.>」で見たように、 ガダルカナル島は、既に昭和18(1943)年9月30日の御前会議で「絶対国防 圏」の圏外と決定されていたのだった。