落語研究会・第600回 満50年<等々力短信 第1109号 2018.7.25.>2018/07/25 06:35

 「四万六千日、お暑い盛りでございます」は、先代桂文楽の「船徳」だが、 今年の四万六千日、本当に暑い日だった。 浅草は、裸同然の外人女性やペラ ペラ浴衣で、ごったがえしていた。 入谷鬼子母神の朝顔市は毎年行くのだが、 浅草の観音様のほおずき市は久しぶりだった。 並木の薮で天ざるを食べ、江 戸川の風鈴を吹くガラス屋さんの店か「篠原」で一鉢求めてきた。 この日、 浅草寺では雷除けの護符を頂ける。

 落語には、世の中ついでに生きている、与太郎が登場する。 昭和43(1968) 年3月14日に始まった三宅坂国立小劇場のTBS落語研究会は、先月25日第 600回、満50年を迎えた。 それを第1回から、ずっと通い続けている人が いる。 一回の公演で演じられるのは5席だから、およそ3千の噺を聴いた勘 定になる。 そう沢山演目があるわけではないので、同じ噺を何度も聴いてい るだろう。 よく飽きもせずに通ったものだ。 よっぽどの暇人、世の中つい でに生きている、与太郎さんに違いない。

 50年前、26歳の私は、品川中延の家に遊びに来た、結婚前の家内を目黒の 家に送って行った。 その帰り、池上線五反田駅への通路に貼ってあった、会 の発足と第一期定連席券発売のポスターを見たのが、発端だった。 最初は、 桂文楽(八代目)、三遊亭円生、林家正蔵(八代目)、柳家小さん(五代目)、三 遊亭円遊が常連メンバーで、第1回などは何と柳家さん八(入船亭扇橋の前名、 扇橋は第500回にも出た)と先代の三遊亭円楽が前座を務めた。 その後落語 研究会を支え、盛り上げた金原亭馬生(十代目)、古今亭志ん朝、桂文朝、東京 の名人達が消えた穴を上方から埋めた桂文枝、笑福亭松鶴、桂枝雀、桂吉朝、 桂米朝も、みんな死んでしまって、与太郎だけが生き残った。

 長い間には、いろいろあった。 昭和46(1971)年8月、桂文楽が『大仏 餅』の途中で神谷幸右衛門の名前を失念し、「申し訳ありません。勉強し直して 参ります」と高座を下りた。 間抜けにも、この回を欠席した私は、残念とも、 この名人の凄絶な最後の高座を聴かなくてよかったとも、思った。 小三治が 「船徳」を演じている最中、かなり大きな地震が来た。 若旦那が船頭の舟が、 本当に揺れたのは、おかしかった。

 定連席券は、初め郵便での継続販売が二、三年あった後、苦情が出て行列と なったから、40年ほどは、ずっと赤坂のTBSに始発電車が動く前にタクシー で行って、並んで獲得していた(現在は継続式)。 近年は定年になった友人達 が仲間に加わり、近くの天婦羅屋さんで軽く一杯やってから劇場へ。 一回聴 いて来ると、マクラから落ちまで通して、ブログに6日も7日も短篇小説でも 書くように、楽しんで綴る。 10年以上になるので、与太郎仕事だが、平成落 語の一記録となるかもしれない。

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